2.狭山池惣絵図 享保7年(1722)

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狭山池惣絵図 ① ② ③ ④ ⑤ ⑥

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狭山池惣絵図/享保7年(1722)

絵図上が南。狭山藩が江戸幕府勘定所に掟出した絵図と推定されている。池の輪郭から見て、絵図の精度が上がっている。天野川と今熊川の河口には、土砂で埋まった池内を田畑に造成した新開が登場する。この絵図は以後の惣絵図のモデルになったと推定される。絵図凡例は西から村、石垣、道、芝、新開、堤、水、杭である。中樋・西樋は河州丹南郡狭山池絵図と同じように鳥居建を四段重ねるが、北からではなく南から見た表現にかわる。

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①部分図
各部翻刻
a ①-a 茱萸新田
b ①-b 天野川幅拾六間
c ①-c 半田村
d ①-d 亀之甲
茱萸新田内
e ①-e 今熊村

②部分図
各部翻刻
a ②-a 今熊川幅拾四間
b ②-b 南北六百三拾三間
惣廻式千四百八拾間

③部分図
各部翻刻
a ③-a 高野山道
高野山江十一里
b ③-b 下屋舗
c ③-c 半田村領
d ③-d1
③-d2
東新町樋役人三拾人
池尻村領
e ③-e 北條遠江守上所屋舗
f ③-f 大坂道 平野江三里
    大坂江五里

④部分図
各部翻刻
a ④-a 東西三百五十五間
b ④-b 堤長四百弐拾間

⑤部分図
各部翻刻
a ⑤-a 岩室村
b ⑤-b 西新町道ゟ北ハ日置庄七ヶ村立会山之内
西村 丈六村 高松村 原寺村 北村 岩室村 今熊村
道ゟ南、岩室村領。此所ニ大野新開ニ附候所有之。
樋役之者七人罷在、屋敷者古来無年貢地ニ被成候所
東新町三十人ゟ三年以後増人ニ被 仰付御証文も
被下東新町同格ニ半田村ヘ附、御代官御支配ニ附来候
然處御証文西新町ニ焼失無之ニ付、延宝五巳年半田村
御検地之節、御年貢地ニ罷成候。段々相願候上、森本
惣兵衛殿御支配之時、元禄七戌年、御勘定所江
惣兵衛殿被仰達半田村之永荒ニ御定無年貢ニ
被成候御勘定所ニ而御聞届之御証文御出シ依之
半田村附ニ成
c ⑤-c 半田村附
西新町
樋役人七人
d ⑤-d 此所古来ゟ橋有之 公儀ゟ御修覆度々有之候得共元禄
九子年大破落申ニ付大坂堤奉行辻弥五左衛門万年長十郎□
池守申達候処橋不残取払古木御払相成其以後橋無之
e ⑤-e 堺道
堺江三里
f ⑤-f 村 石垣 道 芝 新開 堤 水 杭

⑥部分図
各部翻刻
a ⑥-a 池尻東村
北條遠江守知行所
b ⑥-b 池尻西村
北條遠江守知行所
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