那須氏系図(資虎以下は黒磯市針生宗伯氏が過去帳より補う)

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大織冠鎌足
天津児屋根命二十一世の苗裔、一名鎌子と云。母は大徳冠大伴ノ比古の乙女也、中臣之御食子、人皇三十九代天智天皇の御宇、八年十月十五日従二位内大臣中臣の姓を改め藤原姓を賜、同八巳年十月十六日薨、歳五十六

不比等
従二位右大臣、淡海公と称す。母は車持国子君の女也。近江十二郡領、興福寺本願也。仁王四十五代聖武天皇の御宇也。養老四年八月一日病臥、之に依り九十人に大赦を賜、都下四十八ケ寺に令し一日一夜薬師経を読誦せしむ。験なく八月三日薨、歳六十二、正一位諡文忠公

房前
参議、従三位大政大臣、氏長者、天平九丁丑年四月十七日薨、歳五十七、四子皆瘡にて死、母は右大臣蘇我羅自古女贈大政大臣正一位

真楯
正二位大算言、贈大政大臣正一位、母は大宰帥美濃王の子、天平神護二年三月十二日薨、歳五十二

内麻呂
右大臣、右大将従一位藤原朝臣、母は安部常麻呂の女、勧学院を建つ、弘仁三年壬辰年十月十六日薨、歳六十五(十月六日、歳五十七とも云)

冬嗣
左大臣右大将、閑院左大臣、南円堂建立空海導師、天長三丙午七月二十四日薨、歳五十二、文徳天皇外祖父、贈正一位太政大臣

良房
摂政大政大臣、清和天皇外祖父、准三后清和天皇九歳にて御即位の時摂政の始也。貞観十四年九月二日薨、歳六十九、贈正一位、母は阿波守真作の女、白川の大臣又は染殿と号す

基経
関白太政大臣、関白の始也。堀川と号す、良房子無きを以て兄長良の三男嗣ぐ、従一位准三后、寛平三辛亥年正月十三日薨、歳五十六、諡昭宣公、嫡子時平大臣也忠平は弟也

忠平
摂政関白太政大臣、従一位、天暦三巳酉年八月十四日薨、歳七十、贈正一位、諡貞信公、延喜式五十巻を著す、母は康親王の女

帥輔
右大臣正二位九条右丞相と号す。天徳四年五月四日薨、歳五十三、早世摂政職を経ず贈太政大臣正一位

兼家
摂政関白太政大臣、従一位五摂家の祖、法興院又東三条御堂と号す。宇都宮家分る。正暦元庚寅年七月二日薨、歳六十二

道長
御堂関白、法成寺の金堂建立、万寿四年十二月四日薨、歳六十二

長家
中宮大夫、権大納言正二位民部卿、康平七年十一月九日薨、歳六十三

(道隆)異本ニ道長無ク道隆、伊周ヨリ道家トアリ中関白、従一位内大臣、長徳元乙未年四月十日薨、歳四十三

(伊周)正二位内大臣、儀同三司ト号す、罪有テ流刑セラル、後赦ヲ得テ帰京、寛弘七年庚戍正月二十九日薨、歳三十七

道家
従三位伊予守、嫡子関白家を継也。延久四年十一月二十七日薨、会津山内分る。

貞信
須藤権守、幼名資家と称し、後貞信と改む、那須家の祖、家紋藤丸(八溝山の鬼神退治の功に依り那須郡を賜り、長治二年三論郷に城を築きて住す。貞信に元讃州神田と云う所を領せし故、旧領の名に因て神田城と号す)又人皇七十六代近衛院の御宇、久寿二乙亥年、三浦介義純、上総亮広常両人と共に那須野原の怪狐を退治す。資満の時とも云う。

評に曰く八溝山鬼神退治の事旧書には見えず、延暦二十一年田村丸江州鈴鹿山の鬼退治せし事有り。此の説に因て八溝山の鬼神退治を妄作せしならん。案ずるに八溝山の鬼神は山賊の類なり。近衛院の侍女玉藻前帝都を逃れ那須野に下り、野干となり人民を害せしというは附会の説というべし

資通
須藤太郎相模守、八幡太郎に仕う、天仁二年下境に城を築く

資満
実は相州山内首藤刑部義道の嫡子也、資通子無き故同姓の故を以て養子となす。是より丸一文字の紋を用う。山内家は次男刑部亟俊通を以て継がしむ。平治元年源義朝に属して、京都三条河原に於て討死、(舎弟俊通も同年六条河原にて討死三男刑部公出家、治承四年五月二十三日討死、高倉宮に一命を進ず、三井寺宗円阿闍梨経字房の弟子也。)

資清
須藤太郎、下野守、平治元年父と共に京にて討死

宗資
須藤次郎、那須の武者所となる。初め資房と共に甲州稲積に隠れ居て、其所の鎮守稲積明神に本国帰参を祈りしに、明神受納ありしか、永万元年清盛の計を以て勅免蒙り下野に帰ることを得たり。那須家を継ぎ神田城を廃して下境村に城を構えて移り住む。又稲積明神を勧請して鎮守とす。是宗資甲州にあって此明神に本国帰参を祈誓せしに、願成就の故に稲積城と号す。

資房
須藤三郎、始めて在国す、平治の乱後神田城に住すること能わず、甲斐国稲積の庄に兄宗資と共に蟄居す。宗資子無きにより家を継ぐ。

資隆
須藤三郎、後肥後守、那須太郎と云、(実は山内首藤義通の四男也。資房子無き故資隆那須家を相続す。後上の庄に館を築きて移住す、是を高館城と云。小山下野大亟政光の妹を娶り男子十一人有り、又宇都宮弥三郎朝綱の娘を愛して一子出生す。男子都合十二人也(福原に敗走して文治二年十月十四日病死、歳六十四)

(那須記に文治三年正月十五日、紀州三藤にて病死す、小口と云所に葬ると有佐良土法輪寺の位牌には文治四年申正月十五日と有。小滝氏系図には文治二丙午年十月十四日、六十歳にて病死すと有)

  光隆 森田太郎、子無く佐久山の子を養子とす。
  泰隆 佐久山次郎
  幹隆 芋渕三郎、幹の字和尓雅の内名乗字本の部にあり、子孫三代にて終る。
  久隆 荏原四郎、子孫なし
  之隆 福原五郎、福原に住す。此人諏訪の宮を田宿の後に移す。宗隆子無きに依り那須家を継ぐ
  実隆 滝田六郎、芋渕三郎の子を養子とす。
  満隆 沢村七郎、子無く一代にて絶ゆ
  義隆 堅田八郎、後に片平八郎
  朝隆 稗田九郎
右九人の者始め平家に属す。文治元年の戦に平家亡びて後、信州諏訪に蟄居、後に頼朝の赦免を得、帰国して一ケ所づつ領す。

為隆 千本十郎、千本家の祖、千本家系図に信州戸福寺に隠れ、因て戸福寺十郎と称す。(治承四年父資隆の計を以て義経に属す。文治元年二月屋島の合戦の時、扇の的を射ることを辞して義経の勘気を受け為隆も信州へ行き、或日諏訪の社前にて九人の兄に出逢い相共に語りて明神へ本国帰参を祈る。後諏訪明神を苅生田に建立す)

宗隆
那須与一、後下野守資隆と改む。治承四子年十二歳(十五歳ヲ可トス)にて、義経に属し、文治元巳年二月十八日讃州屋島にて十七歳(二十歳ヲ可トス)にて扇の的を射て、源平両氏の目を驚かし、此の功に因て五箇の庄を賜り、父の後を継ぎ高館の城に住す、那須の武者所となる。五箇の庄の事、若狭国東庄、宮河原庄、備中国荏原庄(後月郡西江村)武蔵国本田庄(大里郡本畠村本田)丹波国五賀庄(船井郡田原村)信農国角豆庄(此時領地一万八千町)と云。一に宗隆烏山に住すと云は那須記より出でたる説にして信じ難し、又福原に住すと云も誤りか、福原には五男之隆住す故に福原五郎と云、文治二年(或は三年)宗隆の兄以下十人の者は信州諏訪に隠れ居て、常に明神に本国帰参の旨祈りしに、或時夢中に明神の告を蒙り、五郎之隆を鎌倉に赴かしめ、弟宗隆に頼りて忠勤に免じ、兄十人の罪赦されて下野に帰らしむ、是に於て兄弟相携いて那須に帰る。

父資隆喜ぶ事限りなし。然し宗隆那須の家を継ぎ、高館に住し那須の武者所たる故、父資隆の計にて十人の兄に一ケ所の領地を分つ。十人の者以為らく、吾ともがら本国に帰ることは偏に諏訪大明神の冥助なりと云いて、所領毎に一社を建て之を祭る。文治五年宗隆上京して石清水に詣で、明日参内して、此時従五位下、下野守に任じ資隆と改名すと云。其後伏見にて病みて卒す、八月八日也歳二十一(二十四ヲ可トス)乃ち即成院に葬る。法名月山洞明大禅定門と号す。一説に建久元年戍二月宗隆卒、歳二十二、恩田村に宗隆の霊を祭る、御霊宮是也。又一説に此所に宗隆の遺骸を葬るという。(那須家過去帳には福原玄性寺に葬るとあり改葬したものと思う)

御房子 母は宇都宮朝綱の娘也、後肥前守頼資と称す之隆の養子となり家を継ぐ、 初め資頼、頼朝の一字を給わり頼資と改む。

資之
初め福原五郎之隆と云、弟宗隆早世して子無き故家を継ぎ資之と改む。福原に住す、此頃高館は廃す。正治二庚申年八月八日卒

頼資
初め資頼と云、即御房子也。肥後守に任ず。兄五郎資之病気にて子無き故家を継ぎ、頼朝公の諱の頼の一字を給わり頼資と改む。此代左巴の紋を添えたり。(八田和家の娘を娶り六男一女あり、右大将頼朝公の御代参として、熊野に参詣紀州三藤にて死す。建仁三癸亥十月八日)

光資
那須太郎、後肥前守(吾妻鏡に那須太郎光助とあるは此人也、建久四年四月頼朝卿那須野御狩の時、駄餉を献ず。那須野にて大鹿を射て御感に預る。妻は千葉介胤明の女也。建保五丁丑六月四日卒)

  資長 伊王野次郎、左衛門尉(伊王野の祖也)
  朝資 荏原三郎(備中国後月郡西荏原村小管城に住す)
  広資 味岡四郎
  資家 稲沢五郎(伊王野村大字稲沢に住す)
  資成 河田六郎(両郷村大字河田字堀ノ内に住す)
女子 常州小栗左衛門に嫁す、此時老臣角田氏の娘供として行き、小栗七郎に嫁して一男を生む。此子那須家に仕う、是大関氏の祖也。(茨城県結城郡河間村大字大関は小栗御厨庄にして小栗七郎の住せし地也)

資村
肥前守(妻は得能柴四郎通俊の娘)康元二年両郷に光厳寺を建立す、老後光厳寺殿と云、一説に資村入道して信願坊と云、慈願寺を開基すと云うは疑わし。(吾妻鏡に嘉禎三年六月二十三日、将軍頼経大慈寺供養、暦仁元年同将軍上洛、供奉の武士中那須左衛門太郎とあるは此資村也、又建長二年三月一日の条及同八年六月二日の条に那須肥前々守とあるも同人也)

  女子 伊達家に嫁す、大輪四郎を付け又高瀬の娘を添えて遣わす。
  女子 森田太郎に嫁す。
  光保 熊田弥四郎、貞応中熊田に住す。
   某  出家して日光山に住す。
資家
従四位少将、加賀守左衛門尉、正嘉四年正月鎌倉に勤番す。

月谷殿と云(吾妻鏡に正嘉二年正月一日椀飯の行事に東座郡須左衛門尉とあるは是資家也)

正応四年六十一歳卒(正安元巳亥年二月七日とも)

資勝 沢村五郎、後に資保と改む(吾妻鏡正嘉二年三月一日の条に那須助員肥前々司の子息と肩註して、肥前七郎とあるは此資勝と考えらる。)

光家 熊田肥前守、叔父弥四郎光保の養子となり熊田の館主となる。子孫不詳

資清 初め三井寺に入り出家す、後還俗して那須四郎と云、宇都宮景綱に属して大久保に住し、大久保源左衛門と改む(大久保は七合村大字白久字大久保)

資忠
   幼名藤岡丸、後安芸守、妻は佐竹常陸介行義の娘、正中二年七十二歳卒
  資旨 遠江守、資寿とも云、早世(正応二巳丑九月十四日卒)
資藤
備前守、文和四年(正平十年)二月十三日京都東寺合戦の時戦死、初め沢村資保の養子に約と謂、兄資旨早世故に家督す、人皇九十九代後光厳院の御宇、文和の初(文和八北朝ノ年号)尊氏公の召に応じ数度の戦功あり、時に南北両朝和睦の砌暇を給わりし時、大輪、角田、大関家清、高瀬等を引具し御所中一覧の折節、無礼の事ありて帝甚だ怒り給い尊氏に勅して之を罪せしむ。尊氏公資藤の従者大関兵衛尉(家清の弟なるべし)を切腹せしめ、資藤の罪を赦さしめて国に帰らしむ、其後文和四年二月十三日、足利修理太夫高経、同右兵衛佐直冬と、将軍尊氏公と東寺に於て同姓合戦に及ぶ時、直冬等の軍兵と苦戦して遂に討死す。舎弟二人並に一族郎従三十六騎討死す。

   (東寺合戦は太平記三十三巻目にあり、太平記には那須五郎のみありて名乗りなし)
資宗 芦野三郎宗国(簗瀬四郎東寺にて討死す)(芦野系図には資忠の二男資方日向守、法名応山とあり)

  資政 池沢四郎
   某 五郎
  資方 六郎、東寺合戦にて討死
  国方 七郎、東寺合戦にて討死
資世
幼名安王丸、四位少将越後守、法名西雲、応安六年(文中二年)癸丑八月二十一日卒(泉渓寺記録に応安五年小山氏との戦に戦死すとあるは疑わし)(又明徳元庚午年、玄翁和尚殺生石に授戒す。一説に至徳二年乙丑とあり、此の方可なるべし)

資国 幼名国王丸、金丸肥前守、亀山に住す。(金丸氏の祖)万亀山金秀寺建立、法名宗林金秀居士

   某 三郎、南城と云、小山氏と戦い討死す
  隆経 金枝備中守、金枝氏の祖(上江川村大字金枝)
  女子 早世
  資信 小滝五郎、小滝氏の祖
資朝 那須亦四郎、文和四年父の資藤伏見の里に宿陣の砌、宿女と契りを語らえ出生せし子也。此子孫の者明応の始め資房の代に伏見より当国へ来り熊田肥前守光家の旧館を再興して居館とし熊田に住す。

  義国 幼名光若、大久保掃部介と云、大久保に住す(資国の子)
  資秀 金丸家を継ぐ
資氏
刑部太夫、四位待従、妻は結城氏の娘也、応永十五年四月十三日父資世より先に卒す、法名瑞山と云、此代に鎌倉の沙汰所を持ち給う也、女子一人南山殿へ嫁す、一人は白川殿へ嫁す也。

資之
越後守、妻は上杉入道禅秀の娘、上那須を領す。応永十五年父資氏の卒後、舎弟資重と争論の事あって足弟不和となる。同二十一年祖父資世の卒後兄弟合戦に及ぶ(永享七乙卯年六月十日卒)法名明海

資重 沢村の家を継ぐ、沢村五郎、応永二十一年兄資之と不和となり合戦に及び、資重遂に敗北して下境に移る、是より両家に分る、資重の家系委しく末に出

  女子 福原南の山に嫁す
  女子 白川に嫁す、結城義永の室
  資茂 信濃守、羽田と云(金田村大字羽田)
  氏福 金枝六郎
氏資
初め越後守、大膳太夫、法名大雲芳朝一に長山と云、妻は白川小峯の縁也(此代に上下の庄和睦成る)資之の嫡子、弟資親継ぐ

  明資 肥後守、早世、法名高嶽
資親
   播磨守、大膳太夫、兄明資早世故家を継ぐ、永正十一年八月死、法名泰岩
  女子 円応寺(両郷村)に入り薙髪し、法雲妙性尼と号す
   某 沢村の養子
  女子 宇都宮明綱に嫁す
  女子 白川に嫁す(結城弾正少弼義永の室)
  女子 下の庄鳥山資持の室(此上下の庄和睦の証也)
  女子 宇都宮成綱に嫁す
資永
那須太郎実は白川の結城義永の次男也、養父資親初め男子無き故資永を乞いて養子として二女を以て妻となす。其後実子出生す。此子三歳の時山田城に移して、山田次郎資久と称し、金丸肥前守、大関美作守等を後見とす。然るに父資親実子の次郎資久に家を継がしめんと欲す。永正十一年資親病臥、末期に臨んで其意を金丸大関等に告げて死す、因て大関、金丸、大田原其他の諸臣、八月不意に福原に押寄せ討つ事急なり。那須太郎資永の近臣関ノ十郎と云者、白川より附人也、此者夜ひそかに福原を忍び出て、山田城に至り次郎資久を奪い取り、福原に帰り主人資永に出す。資永喜んで刺殺して自害す。山田次郎は六歳也、資永の妻は山田次郎の姉なりしかば、弟の屍を抱き涙に沈み是も自害す。関ノ十郎は人々の自害を見て城に火を掛け切腹す。上の庄(福原)此時に滅亡す。

  女子 養子資永の妻、永正十一年八月三日福原にて自害す。
  資久 三歳の時山田城に移り山田次郎と云、永正十一年八月三日姉婿資永に殺さる。
沢村五郎藤原資重
妻は佐竹伊予守義俊の娘(或は佐竹右馬守義盛の娘)那須与一宗隆十代(遠江守資宗を加うる時は十一代)刑部太夫資氏の次男也、始め沢村の家を継ぎし故沢村五郎と云、応永二十一年兄越後守資之と不和となり、既に合戦に及び、資重敗北して沢村の館を捨て下境に退き、先祖の須藤三郎宗資の旧跡稲積城を再興して居館とす、是より福原の家を上の庄那須家と云い、下境の家を下の庄那須家と云いて両家に分る。(或系図に応永二十四年八月下境の旧城跡に築城して居城したりしが、翌二十五年八月十八日、酒主村西崇に館を移し、鳥山牛城と称す、永享六年八月八日卒、歳五十八、法名玉岩と。)

資持
越前守、此代より沢村を捨てて那須氏となる。応仁元丁亥年九月十六日卒(或系図に那須太郎、従五位下越後守、母は小笠原民部太輔持長の女、持氏成氏御書に有り、文明十一年巳亥六月二十八日卒、歳七十九歳、法名天性寺殿松峯蘿月とあり)

資実
伊予守、烏山城の元祖、法名傑山、初め下境に住す、明応年中烏山城を築きて移住す。此頃より下境稲積城を廃す。那須記には応永二十四年沢村五郎資重、烏山城を築くとあれど此説疑わし、延宝年中板倉石見守重道候の時、泉渓寺に納めたる烏山八景の詩集の跋には、資隆の裔孫資実、其子資房と此城を築きて住すと有り、元禄六癸酉年三月永井伊賀守直敬候の寄附したる恩田村御霊の宮の香炉の銘には、今の烏山城は元は川東の下境村に有り、後沢村資重移城烏山と有り。(両説何れが是なるか未詳、按ずるに永井侯は那須記を取り、沢村資重烏山城を築くとし、此系図は板倉侯より納めたる詩集の跋を以てせるなり。)明応三甲寅年正月二十四日卒

  持隆 興野備中守、興野氏の祖、興野大沢両所を領す。
       (永徳三年烏山より分知し興野に館を構えて住す、諸臣系略)
資房
左衛門大輔、修理太夫とも云、永正十三年丙子六月上旬上の庄へ越し給う。永正十一年八月四日上の庄福原の那須家断絶す。故に同十三年六月上旬より上の庄共に兼帯して、嫡男の政資を山田城に置く、同十七年八月十二日、白川結城義永、岩城下総守常隆を頼み、両勢を以て山田城を攻む、(亀山城の岩城坂は此時一夜にして開鑿せしなりと)資房山田の後詰として出馬有りて、梅園ケ原に出て合戦あり、奥州勢敗北す。大永元巳年十一月白川の義永、再び岩城常隆に諜し合せて、多勢を以て山田を攻めて焼き、続いて上川井城を攻め落す。此時佐竹式部太夫氏義の扱にて和睦となり、岩城常隆の娘を那須政資の妻とす、後一子出生す高資と云。

  頼実 民部太輔、木須村に住す(諸臣系略には那須伊予守資実の次男木須民部太輔資康とあり)
  実氏 後三郎、後宮内と改む
  女子 武茂貞綱に嫁す
  女子 佐竹氏義に嫁す
  女子 稲沢播磨守に嫁す
木須大膳実忠 天文二十年正月二十二日千本常陸介館にて高資害せらるる時討たる。(諸臣系略に大膳康忠後に康実と云。康実男子二人有り、長男を与九郎と云、羽田豊前信濃守の家を継ぐ此時三歳也、次男与八郎と云、当歳なる故木須に住すること叶わず、母共羽田豊前が許に寄寓し、成長して越前と云うと有り)

政資
壱岐守、初め妻は岩城下総守左京太夫常隆の娘、後妻は大田原山城守綱清の娘(大田原景賢誌には資清の女とす従うべし)天文十五年七月二十三日卒、法名雄山宗英

高資
修理太夫、母は岩城常隆の娘、妻は宇都宮芳賀の女、天文十八年九月二十七日、五月女坂に於て宇都宮左衛門俊綱と合戦す、五月女坂合戦は諸家の記録に依て異る。(大久保と興野系図には天文十八年九月二十三日、黒羽町両郷の大宮寺小泉家の蔵所と宇都宮代々法名記、千本氏の系図、金枝氏の感状等には天文十八年九月二十七日、那須記と小滝氏系図には天文十五年五月十三日、継志集には天文十八巳酉年九月二十七日とあり従うべし)同二十年正月二十三日、千本常陸介資俊の館に於て、高資欺き討たる、近臣木須大膳も共に討たる。一説に千本為継とあり天性寺系図には、法名天性慈舜、高資天性寺を改作す、之に依て寺号を以て法名と為すと有り。

資胤
修理太夫、始め森田の家を継ぎ森田次郎と云、母は大田原山城守綱清の女(資晴の女が良し)前妻は芳賀氏の女、後妻は芦野氏の女、兄高資千本に殺害されたる後家を継ぐ、高資と資胤は別腹の兄弟にて常に不和也、永禄三申年牛頭天皇を大桶村より烏山に移す。同年三月二十六日、白川の城主結城左衛門義親(白川古事考には左京太夫晴綱とあり)会津黒川の城主、芦名左衛門盛氏両勢にて小田倉にて合戦、(小滝と興野系図には、永禄五戍年三月とあり)同九年宇都宮下野守国綱と神長村治部内山にて合戦、佐竹と数度戦う。上那須の大田原、大関其の他の諸士と不和になり度々合戦あり、同十一年上那須の諸士と和睦、天正十一発未年二月十一日卒、法名江月院芦錐玄雪大禅定門(此時初めて院号を用う)

資安 始め福原九郎と云、後森田弾正左衛門と改む、初名資安後資邦、(森田芳朝寺記録に、芳朝寺開基、慶長四年十月十五日卒、法名蟠竜院殿門州道無大居士とあり)

  女子 茂木三郎に嫁す
  女子 芦野弾正に嫁す(三女共に資胤と同腹)
  資経 福原弾正左衛門(此人那須系図になし、関東古戦に政資の四男とあり故に書き加う)
  女子 千本十郎義政に嫁す(此女子那須系図に見えず、千本氏系図に有る故に加う)
  女子 母は芳賀氏の娘、茂木刑部大輔の妻となる
  女子 森田弥一郎の妻、母は芦野氏
資晴
修理太夫、従五位下、母は芦野氏(大和守資英)の女、室は結城左衛門晴朝の女、元亀天正の頃、佐竹氏、宇都宮氏と度々合戦、天正十三年十二月八日、滝村太平寺にて千本常陸介、同十郎父子を殺害す。那須と佐竹と不和にて数度合戦す。然るに天正十五年沢村観音寺の宥弁(野史に金剛寺院尊瑜とあり、同寺は烏山にありしが廃寺となる)の謀にて両家の和成り、資晴が妹を以て佐竹義宣の室とす。

    資晴の知行割
八万石烏山、一万八千石黒羽、五千石福原、一万二千四百石大田原、二千七百石伊王野、三千八百石千本、二千七百石芦野

天正十八年寅年、豊臣秀吉公小田原征伐の為め大軍を引卒し、既に豆州三島に陣す、時に大関安碩資晴に勧めて三島に至らしめんとす、資晴応ぜず、故に大関、芦野、大田原、福原、伊王野、千本等密談して三島に至り、秀吉公に拝謁す、秀吉公喜んで本領安堵の朱印を給う。此時より各直参となる。然るに同年七月に至り北条氏政戦尽きて切腹し、小田原既に落城す、依て資晴も烏山を棄てて佐良土に退く、太閤織田信雄に下知して烏山城を預らしむ、後又成田下総守氏長に給う。太閤秀吉公奥州平定の時、下野大田原城下に宿す、此時も資晴病と称して出でず、其後資晴先非を悔い伏見に至り、石田、増田等に就き漸々にて秀吉に拝謁を遂げ佐良土にて五千石を給わる。慶長十四年十二月七日、五十七歳にて卒す、法名不携院殿休山慶罷大禅定門(福原玄性寺過去帳には慶長十五年六月十九日とあり)

  女子 佐竹義宣の室、母は資晴と同じ
顕高 始め雲岩寺に入り出家す、後還俗して牧野左衛門資栄と云、武功あって高名八ケ国に隠れなし、後箱根の温泉にて、刀称ノ信俊と事により争って害さる。

栄雄 放下僧に身をやつし、豆州三島に於て父の仇を報ず(栄雄を放下僧となすは疑なき能わず)

資景
幼名藤王丸、母は結城晴朝の女、室は小山氏の女、左京太夫与一、天正十八年五歳の時烏山を退去す。其秋太閤秀吉公大田原に宿し給う時、滝田、稲沢等に携せられて秀吉公に拝謁し、福原に於て五千石を給わり、乃ち福原に住す、慶長五年奥州会津の城主、上杉景勝退治の時、徳川公より四千石加増す、父資晴の知行五千石、都合一万四千石を領す、此年資景十五歳、慶長十九年二十九歳の時武功を顕わす。明暦二年丙申正月二十五日卒す、年七十一歳法名須峯院殿月山洞智大居士、福原玄性寺に葬る。

  女子 喜連川尊信の室
資重
美濃守従五位下、寛永元年正月十七日十七歳にて家督、同十九年壬午七月二十五日卒す、三十四歳、法名自鏡院殿天心玄性大居士と号す。(正保元年七月二十五日とも云)此時一万四千石の内九千石召上らる、(野史には事に座して邑三千石を減ぜらるとあり)尤も父資景存生により五千石給わる、後に又二千石加増す。資重卒去の時、養子の事に就て家中和せず旧臣大久保、小滝等福原を立退く、葬礼の時、黒羽、大田原、佐久山、芦野、森田、皆々使者名代にて供仕り、何れも玄性寺に引馬納む、泉も柳田半之亟と云う使者代官に来て相勤むる也、(那須氏七十人の家中にて、五十人方、二十人方の両派に別れて訴訟し、五十人方勝を得て増山弾正の弟権之助を養子となされたり。

資祗
遠江守、左京太夫、実は増山弾正少弼正利の弟権之助也、(是は左大臣家綱公の御伯父にて御座候)承応元年二月家督、養祖父領七千石、後五千石加増して、一万二千石にて福原に住す、寛文年中の武鑑には一万三千石とあり、天和元年八千石加増有って二万石となる。福原より烏山に移る、江戸屋敷は湯島天神下、家紋丸一文字也、此時一菊の紋を用う、遠江守は将軍家綱公の御母堂於良久の方の弟なり、家督の砌は小姓に召出さる。天正十八年、資晴没落より九十二年にて、那須氏烏山に帰り住す、貞享四年六月二十五日卒、歳六十歳、福原天台宗千手院に葬る、法名蓮台院光国清心大居士

  正弥 伯父増山弾正少弼正利の養子となり、増山兵部少輔と称す。
   某 童形早世
資徳
与一、母は増山正利の女、実は津軽越中守信政の二男(養父資祗の姪の子也、時に二十七才)貞享四年八月二十六日家督、養父遠江守妾腹の子に福原図書資豊と云者あり、父存生中は下境村に蟄居す、然るに与一資徳家督の後、其の母と共にひそかに当地を出で江戸に至り、伯父平野丹波守長政方へ行き、相談して那須家の実子は某なり、然るに実子を括て他家より養子に及ぶ由を言上す。(或系図に将軍家綱立腹し、妾腹たりとも実子あるに養子したるは不届なり。仮令父子不和なりというとも、与一家督の砌少々分地をも願出べき所、無調法なる仕方なり)依って図書は伯父丹波守に御預け、与一は実父津軽越中守御預けとなる。貞享四年十月十四日也、又同年十一月六日、烏山城は召上らる、引渡の上使として土岐伊予守、御目付柴田三左衛門、中根半十郎、此外御代官等役人数多、城地受取は宇都宮城主奧平美作守なり、養父遠江守天和九年に烏山城拝領あってより、漸く七年にして絶ゆ、此時那須家武器は烏山城附となり、鉄砲等の武器に丸一の紋付きたるは、那須家より残りしもの也、与一は元禄十四年召出され、福原に於て千石の新地給わり、江戸定府となり、屋敷は元誓願寺前にて渡さる。是より一菊の紋を用う、宝永五戍午年六月二十五日卒、年三十八歳、法名月峯常心大居士(那須家由緒に、武林隠見録を引いて、那須遠江守は増山左衛門とて、将軍綱吉公の御母公宝樹院様の御弟なり、那須左京太夫資祗養子にして、野州烏山二万石拝領す、嗣子なしとて津軽越中守二男主水殿、那須の家督相続す、時に常憲公の御命に依って那須与一と改む、然る処遠江守外戚に福原図書とて実子あり、此の母懐胎の時離別して深川カキムキの者方に縁付候て図書を生み、彼の家に生るる故に、養父と共にカキムキを渡世とす、遠江守聞きて引取り、烏山に母子共に置く、図書幼少より賤しき業をなせしより、其の育ち賤し、依て遠江守実子なれ共隠し置き、与一を養子とす、此度与一家督せしを聞きて、父方の伯父平野丹波守に駆け入りて、公儀へ訴状差出す、之に依って段々御詮議有り、与一領地召上、増山一族等は津軽越中守方に閉門仰付らる、図書母子共不届也、平野丹波守へ御預、其の後年を経て御免さる、此時越中守小河町屋敷召上られ、本所二ツ目橋辺にて屋敷下され候)

  資豊 福原図書、母は平野丹波守長政の妹也、元禄二卯年病死
資隣
幼名豊丸、後与一と改む、与一資徳の実子也、高千石、宝永武鑑に一菊の紋、屋敷は元誓願寺前(当時那須家屋敷は江戸二ツ目なり、紋は近代影一文字を用う)那須捨遺記所載は、資隣童名豊丸、与一と改む、那須福原にて千石賜り、屋形は那須になし、江戸本所にあり、津軽より二千石宛合力にて、三千石の格を以て交代の格、那須家の上席なり、享保十八年丑六月八日二十八歳にて卒、御子二人あり、嫡子豊太郎当丑に六歳、次男は六郎と申して四歳にならせ給う。)上野覚王院に葬る(過去帳)

資虎
   初資直、与一と称す、天明三癸卯七月四日歿す。
資明
豊太郎、家紋一文字の下十六菊、丸に一文字、左巴、書画に勝れたり、天保三壬辰正月五日歿、上野覚王院に葬る。

資礼
   文久元辛酉九月五日歿、上野覚王院に葬る。
資興
   藩籍奉還、明治三年庚午七月五日歿、上野桜木町養寿院に葬る。
資穀
   昭和十年二月十四日歿、養寿院に葬る。
資豊
   当主、青森県弘前市原ケ平中野住
 
 注 本系譜は針生宗伯編那須拾遺記より書写したものである。

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