大田原の市史は、初代市長益子万吉氏が、大田原市の誕生以前に、人見伝蔵氏と町史編さんのことを語り合ったことに始まると聞く。
たまたま昭和二十九年町村合併によって、大田原市の誕生をみ、市制が施行されるに及んで、大田原市史の発刊が企図され、編集委員会の発足をみたが、具体的に進展するまでには至らなかったようである。
以来二十年、思えば随分長い苦難の道を歩んだものと思うが、本年ようやく発刊の運びに至ったことは、この仕事にたずさわった者の一人として、まことに喜びにたえないものがあるとともに、この市史の編集に努力された多くの先輩各位に対して、心から深い敬意を払うものである。
本市史の編集事業が本格的に企画され、専門委員として黒尾東一氏、小滝三酉氏、岩瀬清氏、萩原勇氏などが委嘱されたのは、昭和三十四年六月である。しかしながら、先史時代から明治維新までの資料をどのように集め、誰がどの仕事を分担するかについての意見は、なかなか一致をみることができなかったもようで、従って資料の蒐集も原稿の整理も依然としてはかどらなかったようである。
いろいろ苦慮した末、増員によって組織を強化する以外に方法はないと考えてのことか、昭和四十一年には川島武夫氏(親園中)小林敏雄氏(佐久山中)藤田倉雄氏(大田原中)の三氏を編集補助員として迎え入れている。
その後昭和四十三年五月には、昭和三十四年からの専門委員会は解散され、岩瀬清氏の単独編集が約三年ばかり続いたのである。
しかしこのことも昭和四十六年六月岩瀬氏の不幸な事故の後は、原稿を書く者はなくなり、僅かに事務局職員の手によって、原稿の浄書が行われた程度であった。
私達三名が無理に市史編集専門委員を委嘱させられたのは、昭和四十八年八月末、市史編集の仕事がどうにもならない迄に行詰った状態の時であった。私達が浅学非才の身もかえりみず、敢てこの仕事を引受けた理由も、右のような事情も充分了解でき、先輩諸氏の労苦を市民各位に知って貰いたい一心であった。
「現在ある原稿を時代別に配列してわかり易くしてくれればよいのだ」と前教育長伴忠夫氏から依頼された仕事ではあったが、いざ仕事に着手してみると、市史とはそのような甘い単純なものではないことに気付いたのである。二十年の歳月に結末をつけ、成る可く早く、しかも最も短時日の間に編集を終わるためにはどうすればよいか。を相談した結果、人見伝蔵氏の資料や岩瀬清氏の原稿を精細に調査する必要を感じ、特に前任者岩瀬氏がどのような考え方でこの仕事を進めてきたかを知り、その考え方の上に立って、岩瀬氏の編集方針を踏襲すべきであろうとの結論に達し編集に着手したのである。
しかし人見氏の資料は大田原藩を中心とするものであり、岩瀬氏の原稿は江戸時代末期の農民の生活や騒動その他二、三編であったため、各時代別に系統的に配列するには、著しく資料、原稿の不足が目立ち、その上専門委員の中にも病気やけがなどの事故も起り、止むを得ず調査員の川島、小林両氏にも原稿の応援を求めねばならないような状態であった。
昭和四十九年七月、益子孝治氏が編集補助員の資格で委員の中に加わってからは、原稿の校正等は一手に引受けてくれ、膨大な原稿の細部にまで目を通してくれたことは、有難いきわみであって、原稿校正一切を氏にまかせて、原稿を書くことに専念でき、ようやく前途の見通しもついたような始未であった。
このように急いだ仕事であったために、そして監修について相談すべき者がいなかったために、でき上ったものは極めて不満足のものであり、且つ又前の方々の意図を充分に活かすためには、私達の力はあまりに貧弱であったことを今更のように感ずるのである。
従って今後不充分と思われる点、改めなければならない点、補充しなければならない点等々数多く発見されることとは思うが、その問題は後日のこととして、免に角先輩諸氏の意志にしたがい、廃藩置県までを前編として、ここに編集を終ることとした次第である。
なお最後に、この市史の編集のために、多くの貴重な資料を提供して下さった市民の皆様方に深く感謝を申し上げて筆をおく。
昭和五十年三月
大田原市史編集専門委員
代表 大田原晴雄