第一章 大田原の地名を考える

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 大田原の地名は、領主大田原氏が住んだために起ったものであると説く者もあり、あるいは大田原氏の来住以前に既にその名があり、大田原氏がこの地に居住するようになったため地名をとって大田原氏を称したものであるとの説をなすものもあるが、中世の豪族の多くが居住地の名をとって氏としている点などから考えると、この地名は大田原氏の居住以前既に地名としてあったとみるが、妥当ではなかろうかと思うし、またこれを証する幾つかの文献のあることに気付くのである。
 すなわち、
   一、大田原氏系譜師吉(大田原氏第一代とされる忠清の伯父)の条に
源尊氏公数度以忠勤令上洛勤近臣依貞治三甲辰五月廿五日始而爲上洛勤近臣身故任五位其上武州爲国司行平御劔拜領、文和四乙未六月下野奥州守護下向本領武州阿保同府中下野那須野之内大俵 上下鹿野合五千貫拜領感状證文有之。

 とある。
   二、次に師吉の甥忠清の条に
文和四年十二月五日山城国神南戦義詮朝臣旗本迠敵懸崩義詮卿於左右見而近寄於追拂与在干時十騎抜連テ敵裂鋪戦少於白所見而忠清所立矢折懸取返而敵後口待近赤松手之者扣居待下知手之者懸候者追崩可申与言、義詮卿即座賞働有合橘給一残而於置今日驗爲可残末代家紋而日依丸橘紋改貞治三年六月伯父師吉奥州下向之節、尊氏公以上意武州府中移守阿保後大俵此代祖也。

   三、次に忠清より六代後康清の条に
明應三甲寅十月始而那須移上大俵之内神宿作堀内祭天照大神屋敷裏也、業平之天神祭北那須上下之庄分乱之時從鎌倉以上意和談人也從此時與那須通用也。

 以上が大田原氏系譜にあらわれる大俵(大田原)で何れもが大田原氏が此の地に来住する前の地名であることを物語っている。
 但しこの系譜には記事そのものに疑問があり、また数ケ所に誤りがあることに気付くのである。
 すなわち、貞治三年(一三六四)師吉は尊氏の身近に勤めたとあるが、尊氏はこれより前、延文三年(一三五八)に死去している。これは恐らく貞和三年(一三四七)の誤りであろう。
 また、師吉の条には文和四年(一三五五)奥州守護として下向とあり、忠清の条には「貞治三年伯父師吉奥羽下向」とあって一致しない。しかしこれらの誤りは誤りとしても、この地が六百余年前すでに大俵と称していたことには間違いはないのではないかと思う。
 なお、師吉が尊氏より賜った「下野那須之内大俵上下鹿野合五千貫」とある地が一体どの辺であるのか、諸説多く明確にし得ないことを残念に思うものであり、また、五千貫拝領の字句もそのまま受け取ってよいものかどうか、いろいろ疑問が残るのである。
 次に忠清が大俵氏の祖也とあるは少々疑問がある。由来姓は住んで居る土地名をもってしたものが多い。大田原氏の場合も大俵に住むようになってより、大俵姓を名乗ったものであろう。従ってこれはこの地に来住した康清以来のことと思われ、それより前は阿保姓を称して居たとみるのが穏当のようである。それは大俵姓となって後も、別姓阿保を名乗っていたことからも、これを思わせるのである。
 また康清がこの地に来て最初に館を構えたのは、市内荒井の堀の内で、今もそこには元荒井館趾といわれる田甫中に僅かに土塁が残されている。然しこの説にも反論があり、富池の近くの堀の内辺ではなかろうかと説くものもある。水口館はこの後に造られたものである。
 なお、この際天照大神を祭った神宮は、現在の大田原神社の前身で、前室城築城後は三ノ丸へ、後中田原の中の宮地内へ、更に元禄三年中田原湯泉坂上へ、そして明治三十七年現在の位置に遷されている。
   四、次に応仁二年(一四六八)十月連歌師宗祇の記した「白河紀行」に次のように記されている。
       白河紀行      飯尾宗祇
 つくばの山の見まほしかりし望をとげ、黒かみ山の木の下露にも契を結び、それよりある人の情にかかりて、塩谷といへる処より立出侍らんとするに、空いたうしぐれて、行末いかにとためらひ侍りながら、立とどまるべき事も旅行ならびは打いでしに、案内者とて若侍二騎道者などうちつれ、はるばると分入るままに、ここかしこの川音なども袖の時雨にあらそう心ちして物哀れなり。しるべの人も両人はかへりて、只一人相具したるもいとど心ぼそさに、那須野の原といふにかかりては、高萱道をせぎて、弓のはずさへ見え侍らぬに誠に、武士のしるべならずば、いかでかかる道には命もたえ侍らんとかなしきに、むさし野なども果なき道には侍れど、ゆかりの草にもたのむかたは侍るを、是はやるかたなき心ちする。枯たる中より篠の葉のうちなびきて露しげきなども、右府の詠歌思い出られて、すこし哀なる心ちし侍る。しかはあれどかなしき事のみ多く侍るをおもひかへして、
  歎かじょ 此世は誰も うき旅を 思ひなす野の 露にまかせて、
同行の人々も思々の心をのべてくるほどに、大俵といふ所にいたるに、あやしの民の戸をやどりにして、柴折りくぶるなども、さまかはりて哀もふかきに、うちあはぬまかなひなどのはかなきをいひあはせて、泣きわらひみ語りあかすに、事かなはぬ事ありて、関のねがひもすぎがたきに、あるじの翁情あるものにて、馬などを心ざし侍るをこしかかりて悦をなして過行に、よもの山紅葉しわたして、所々散したるなどもえんなるに、尾花浅茅もきのふの野にかはらず、虫の音もあるかなきかなるに、柞原などは平野の枯にやと覚侍るに、同行みなみな物がなしく過行に、柏木むらむら色づきて、遠の山本ゆかしく、くぬぎのおほく立ならぶも、左保の山陰大川の辺の心ちして行ままに、大なる流のうへにきし高く、いろいろのもみじ常盤木にまじりて物ふかく大井川など思い出るより、名をとひ侍れば中川といふに、都のおもかげいとどうかがひて、なぐさむ方もやと覚えて此川をわたるに、白水みなぎり落て、あしよはき馬などはあがくそそぎも袖のうへに満ちて、万葉集によめる武庫のわたりと見えたり。それより黒川と云川を見侍れば、中川より少しのどかなるに、落合たる谷川に紅葉ながれをせぎ、青苔道をとぢ、名も知らぬ鳥など聲ちかき程に、世のうきよりはと思ふのみなぐさむ心地し侍るに、はるけき林のおくに、山姫も此一本や心とどめけんと、いろふかくみゆるを興に乗じてほどなく横岡といふ所に来れる。ここも里の長をたのみ峰の松かぜなど、何となく常よりは衰ふかく侍るに、このもかのもの梢むらむら落ばして、山賎の栖もあらはに、麓の澤には霜がれのあし下折て、さをしかのつまとはん岡べの田面も、守人絶てかたぶきたる庵に引板のかけ縄朽残りたるは、音するよりはさびしさ増りて、人々語らひ行に、おくふかき方より、ことにいろこくみゆるを、あれこそ関の梢にも侍れと、しるべのものをしへ侍るに、心空にて駒の足をはやめいそぐに、関にいたりで中々言のはにのべがたし。

(続群書類従)

 これは応仁の乱の起った翌年、宗祇がそれまで住んでいた京都を逃れ諸国行脚の旅に出、各地を廻った紀行文の一つで常陸、武蔵、下野を経て白河への旅の記。
 下野国内での道筋は日光より船生、玉生を通り、矢板市沢あたりから箒川を渡って那須野に入り、(薄葉を通ったか実取の阿婆原を通ったかは不明)現大田原の町中を過ぎ、和久から町島の水口館の北を通過、同字上宿あたりから荒井南部を経、練貫、羽田の北部、野間鍋掛から横岡、白河の関へと道をとったのではなかろうかといわれている。(後の奥州荷物街道)
 当時はまだ大田原城も更に水口館も造られて居らず、勿論今の町もなく、附近は輪の内、(前室村のあたり)または善勝川畔に僅か五~六軒程度の農家が散在して居ったに過ぎず、ここで泊った大俵とは、一体どこなのか、大俵康清が武蔵国よりこの地に来て、堀之内に館を構えたといわれる明応三年(一四九四)は応仁二年(一四六八)より二十六年後のことである。
 以上によってみても大田原(天文十四年大田原資清大田原城築城後大俵を大田原と改む)の地名は大田原氏来住以前既にこの地の地名であったことが明らかである。
 ではこのような地名が何時、どうして起ったか。
 まず時期については極めて古い時代からのものという程度で、何時頃からとは明らかにはいい得ない。
 次にどうしてこのような地名が起ったかについては、次のように考えられる。このことは次の土地の成立史で述べるように、ここは海底隆起に伴なう平地ができ、やがてそこは草木の育成した原野となり、扇状地末端部より湧出するたくさんの泉と豊富な水により、だんだん侵蝕され現在に至っている。
 このようにしてできた低湿地をニタ、ヌタ、ムダと称し、ヌタ、ニタの地名は共に東北と九州に多く、ムダは九州に多い。この中、ニタとヌタはアイヌ語ニタッ(低湿地の意)とマライ語ヌッター(涇水)(種子)にそれぞれ語源を求めているが、アイヌ語源にしてはそれらが北海道には共にそのような地名が極めて少ない点よりいささか疑問視されている。
 なお、ニタは日本の古語で柔軟な意、ヌタは湿地、泥田の意、ムダは泥深き所の意でもある。前のような低湿地を水田化した場所に対してはオダ、ウダといっている。つまり狭い耕地や泥田のことで、更に砂地を意味する場合もある。ところが単に砂地を意味するアイヌ語にオダがある。(柳田国男著地名の研究より)
 以上各種の地名のうち市内に宇田川があり、黒羽町にはオダ川がある。後者については別の解釈もあるが(那須郡誌)それは多賀(たが)村であり、現地ではオダ川といっている。
 なお砂地を意味するアイヌ語オタは海岸近い砂地のこと、この点でここの地名にどれだけ関係を持つか一考を要する点であるが、扇状地の砂礫の部分がこれと同意に用いられたかも知れないのである。
 このような場所を含んだ平地、これがウダッパラ、オダッパラ(この近在の人々は古くから原をパラと発音している)更にこのウダがウダの原すなわちウダワラ、オダワラ、オオタワラと変化したのではなかろうか、と思うのである。と、
 以上のような説をなすものもあるが、日光市の和名研究家高橋勝利氏などは、大田原(大俵)と蛇尾川との関係、蛇尾川と丹の党大田原氏との関係などから研究を進め、大田原の地名は多々羅(たたら)(製鉄所)の変化ではなかろうかとの意見を持っている一人である。すなわち、和名抄の郡郷部に
   山城国綴喜郡 田原
   安房国長狹郡 田原
   丹波国船井郡 田原
   美作国大庭郡 田原

などがある。続日本紀 神護景雲元年(七六七)十二月己酉の条に、
   「従五位上阿倍朝臣三県為田原鋳銭長官刑部大輔如故」
とあり、また同じく、神護景雲二年五月甲子の条に、
   「授鋳銭長官従五位下阿部朝臣清成ニ従五位上、次官正六位上多治比真人乙安ニ従五位下
とある。すなわち田原は多多羅の二字化であり、孝徳天皇の朝の(六四五~六五四)詔により、三字の地名は多く二字の嘉字(好字)に改められたことがある。即ち、和名抄郡郷部に、
   安房国平群郡達良 太太良
   周防国佐波郡多良(高山寺本、作多良太太良(たたら))
   甲斐国都留郡多良(高山寺本、訓太波良(たはら))

とあり多多羅も田原も同意義でどちらもタタラ、或はタハラと読んだようである。前記和名抄綴喜郡の田原、長狹郡の田原、船井郡の田原、及び大庭郡の田原等は、かつては多多羅(たたら)と呼ばれていたのではないかと思うのである。それは、これらの地は皆砂鉄の産地であり、製鉄の仕事も盛んであったのではないかと考えられるからである。大田原、小田原等もその例にもれず、やはりタタラの変化したものであると考えて無理はないように思うのである。また続日本紀 和銅元年二月甲戍(七〇八)の條に
   「始テ置催鋳銭司従五位上多治比真人三宅麻呂之」。
とあり、これは武蔵国秩父郡の和銅発見に関係する記録であるが、丹治比氏が鋳銅と鍛冶とに関係の深いことは、続日本紀 天平十三年(七四一)八月丁亥の条に
   「従五位上多治比真人家主為鋳銭長官。」
とある。
 矢板市(元)泉村伊佐野に字タタラドがある。和名類聚抄に
   土佐国幡多郡鯨野(いさの)
がある。また姓氏録の左京諸蕃には石野連(いさのむらじ)の出自を説いて、
   「石野連(いさのむらじ)出百済国人近速王孫憶頼福富也。」
とあり、続日本紀、天平宝字五年(七六一)の条に、
   「百済人憶頼子老等卅一賜-姓石野連」
とある。また、続日本紀、神護景雲三年(七六九)の条に、
   「備前国藤郡人母止理部(もとりべ)奈波 赤坂部人外少位家部(やかべ)大水………之人賜-姓石野連
などがある。
 さらに、上伊佐野からタタラドに通ずる道を蛇場道という。また大田原市薄葉小字名大塚の地に大きな円墳があり、俗称大塚と呼んでおり、その大塚の南に蛇場道があり、その近くを近所の人達は佐味(ざみ)あるいは蛇場味などと呼んでいる。前記(元)泉村の伊佐野は、石野氏一族の居住の地であり、この地が百済からの帰化人石野一族の製鉄、冶金の地であったのではないかとも考えられるからである。
 従って蛇場道とは、箒川(ははきがわ)(鉄の川)でとれた砂鉄を、あるいはその砂鉄からとった製品を運んだ道ではなかったかと考えられるのである。那須野の地には蛇尾川を始め蛇のつく地名がかなり多く見出されるのであるがこれら蛇のつく地名は、砂鉄あるいは製鉄などと何等かの関係を持つものではなかろうかとも思うのである。
 大田原氏の祖は、武蔵七党の一族、丹の党の一支族であると名乗っているのであるが、丹の党即ち丹治比(たじひ)氏とはどのような氏族であるかを考えてみたい。古事記の仁徳記(四五〇頃)
   「定蝮部(たちひべ)御名代
とあるのが丹治比の初見であり、民部省式に、
   「凡勘籍之徒 転蝮部丹比部
とある。また、続日本紀、和銅元年(七〇八)春正月の条に、
   「武蔵国秩父郡献和銅
が見え、武蔵国で始めて銅を発見し、それを朝廷に献上したところ、元明天皇は大へん喜ばれて、慶雲の年号を和銅と改め、大赦令を発して人々の罪をゆるし、高令者、孝子、節婦をほめ、諸(もろもろ)の官人に禄を賜い、諸国の郡司以下に位一階を加える等、国をあげての喜びであったが、
   同じ和銅元年(七〇八)二月の条に、
   「始置-催鋳銭司 以従五位上丹治比真人三磨之」
続日本紀、天平十三年(七四一)八月の条に
   「従五位上丹治真人家主 為鋳銭司長官
続日本紀、宝亀五年(七七四)九月の条に
   「外正五位下丹治宿禰真継為鋳銭次官
同書 神護景雲二年(七六八)五月の条に
   「授鋳銭司長官従五位下阿部朝臣清成従五位上 次官正六位上多治比真人乙安従五位下
   続日本紀、神護景雲元年(七六七)の条に、
「従五位阿部朝臣三県為田原鋳銭司長官刑部大夫如故」
等々が見える。これらは、武蔵国秩父郡の和銅と大きな関係を持つ記事であるが、丹治比氏は仁徳天皇の御名代蝮部(たちひべ)の出であり、採鉱、冶金の徒でもあったのである。(佐野の天命鋳物、小田原の天猫鋳物等とも大きなつながりを持つ)
 即ち丹治比氏はその一族と共に武蔵国の銅や鉄を得ることによって、次第に勢力を扶植しながら、やがて武蔵七党の中の豪族として位置をきづき上げたものと考える。
 武蔵七党の丹の党の輩下にあった大田原氏が那須の地に落付くまでの経緯については判然とし得ないが、(足利尊氏から五千貫拝領の家系譜の記事は到底信じられない記事であり、この系譜は江戸末期に書かれた寛政重修系譜であることを前提として考えるべきである)戦に明け、戦に暮れていた近世の豪族にとって、食糧と鉄を得ることは、戦に勝つ絶対の条件であり、大田原氏が、荒井や、町島や、舟山等のこの地の豪族を滅し町島の水口に館を築いたといい伝えられている意味もわかるような気がするのである。
 水口(みなくち)とは単に水田の水の取入口という意味ではなく、かつては蛇尾川(さひがわ)でとった砂鉄を選鉱するための金流川(かんながしがわ)の水の取入口であったことと合わせ考えるべきであると思う。(神奈川県の県名もこの金流川からの地名ではないかと思うし、もしそうであるならば小田原もまた多多羅の地名であると考えて間違いではないと思う。)
 また、阿保大田原氏について考えてみると、姓氏録、右京皇別に、
「阿保朝臣 垂仁天皇皇子息速別命(いこはやわけのみこと)之後也。息速別命幼弱之時 天皇為皇子 築宮室於伊賀国阿保村以為封邑 子孫因家之焉。
允恭天皇御代 以居地名 賜阿保君姓 廃帝天平宝子八年(七六四年か)改公 賜朝臣姓 続日本紀合」

とあり、また古事記垂仁条に
   「息許婆夜和気(いこばやわけ)王は沙本(さほ)の穴太部別の祖なり。」(沙本穴太部之別祖也)
とあり、穴太部(あなほべ)は大和国添上郡左保の穴太部で、アナホベは穴穂天皇(安康)の御名代(みなしろ)として置かれた部民であった。
 この安康天皇は長兄木梨軽太子が皇太子としてあったのを皇位を争って自分が天皇についだ方であるが、その皇位継承の時の兵器について、允恭紀には次のように述べてある。
-作兵器。「爾時所作矢者、銅其箭之内。故號其矢軽箭也。」穴穂皇子亦作兵器。
「比王子所作之矢者、即今時之矢者也、是謂穴穂箭也。」

とある。これは軽太子の銅の箭が、穴穂皇子の今時の箭即ち鉄の箭に破れた物語であるが、銅の兵器から次第に鉄の兵器へと移る経緯を物語るだけではなく、穴穂部が製鉄の仕事にも従事していたことを物語るものでもある。なお、神名式に
   武蔵国賀美郡今木青八坂稲実神社(かみぐんいまきあおやさかいなみじんじゃ)
       仝 郡今木青八坂荒御霊神社
       仝 郡今城(いまき)青八坂稲見池上神
がある。今木は今来で、新帰化人の意味である。今木青八坂稲見神社の所在地は、和名抄郡郷部にある武蔵国賀美郡中村郷の地であり、丹治の党の出でもある。大田原氏は青の中村が故郷であるといい、俗に「青の中村」ともいったようであるが、この辺からも大田原の先祖をさぐる必要があるように思う。
 阿保は穴穂の略称であり、青と阿保とは同語である。また雄略十八年紀にある伊賀国青墓の地が、和名抄では伊賀国伊賀郡阿保郷となっていることから考えても、青と阿保とは同語であり、この氏族は採鉱冶金を業とする氏族であったことが了解できるのである。
 武蔵国賀美郡一帯に勢力を得ていた丹治の党、およびその一支族であった阿保氏(大田原氏)が、左兵衛胤清の代那須家の協力によって(系譜中那須高資に仕え被官して出雲守と称す)蛇尾川(サヒ川即ち砂鉄の川)のほとり大多々羅の地に館を構え、次第に舟山、荒井、町島等の豪族を滅してこの地に勢力を得たものであると考えるべきで大田原の地名がオダッパラ、ウダッパラ等アイヌ語からの招来であると考えることは無理があるように思う。なお、荒井の地名については、那須郡誌その他には新井と同意義で新しい開墾地と考えているようであるが、大閤検地帳の大田原領には既にその名が記されており、水口と同時頃できた地名であり、物部が物井となり、大部(意富部)が大井となったと同様荒部が荒井と変化したものではないかと思う。
 武蔵国は高麗人の早くから移住した国であり、朝鮮の発音がそのまゝ残っている所であるが、荒の字を嫌って荒田を吉田、荒井を吉井、荒城を吉城等と嘉字を当てゝいるところが多いようである。荒部は任那(みまな)国の安羅、あるいは摂津国安良郡等のアラと同意であり、(どちらも鉄の産地である)採鉱、製鉄の部民の居住地であったようである。
 なお地名については、その付近に残されている(例えば荒井、水口、和久(わぐ)、阿波(あば)、桜井、中井、中丸等)の地名と一緒に再考究をせねばならない時期でもあるように思う。と、
 どちらをとるかについては、人おの/\意見を異にするところであり、今後大いに研究を要することと思う。