次の中新世期に入ると、再び海水面下時代となり、また始新世期より始った那須野を形づくり初めた時期に入るのである。
黒田原、稲沢、黒羽、小川、馬頭、烏山に通ずる東部断層、那須山、黒磯市百村、塩原町関谷等を通ずる北部断層、更に副次的に起った関谷、佐久山に通ずる断層による陥没沈下の結果、この断層線にはさまれた三角形地成内は再び海面下に没した。前記断層のうち東部断層線は、略〻那珂川に相当するが、正確にいえば那珂川東部黒羽山脚末端部にあたり、黒羽町八塩岡沢において判然と観察される。また黒羽町八塩と北滝間の那珂川岸もこれに相当する。
北部断層線は那須山西部山体深く入った直線状河川、百村より関谷間の山麓線、矢板市川崎における西部の山脚末端三角面を示す線がそれに相当する。なお百村、関谷間においては上方より下方へ連なる三列の階段層が行われている。
関谷、佐久山間の副次的断層は、矢板市沢、観音寺東北部崖下の地層撓曲がそれを物語っている。
この期の全般的地盤沈下と、更に断層による沈下の結果は、再び海水面下に没し、次の鮮新世に起った那須、高原火山の爆発に伴う軽石を交ぜた火山灰は、この海底を埋め、凝結して今日の大田原地域丘陵地の各所に露出する凝灰岩層となったのである。