鮮新世後期に入ると、地盤はまた隆起し始め、北部から漸次陸地化していった。
この陸地化が進むと共に、那須野北部に発達した箒川、蛇尾川、熊川(牧川、巻川)那珂川その他の小河川は、山地から平地への河川となって、山地の侵蝕はもとより、更に那須野の平地をも侵蝕しつつ、前期時代に堆積した凝灰岩層を北西から南東方向に向って流水、侵蝕力の大であった那珂川は、その中部で箒川を合わせ、その川筋に当った地域は付近の凝灰岩層を洗い流し、同時に山地を侵蝕して生じた砂礫をその流路に堆積していった。今日赤土層下及び谷間低地部等に見られる砂礫層はこの期の堆積物であり、また箒川の滝沢―佐久山線下流両岸に発達する水成岩や、富池、寺方地内に発源し、市野沢―小滝―金丸を流れ黒羽町で那珂川に注ぐ湯坂川(金堀川)の褐色を帯びた礫等は皆この期のものである。なお、この期における河川の流路はもち論一定せず、たびたび流路を変じ、侵蝕と堆積を行いながら扇状地を形成していったものである。
前記の如く凝灰岩層は侵蝕されていったが、それを免れた谷間地帯が今日見る丘陵列で、何れも凝灰岩層を基盤とし、上部に赤土層をのせ、北西より南東への走向を示し、その頂部は緩傾斜をもって、黒羽、佐良土間の那珂川および福原、佐良土間の箒川に向っている。今日見る河川の流路方向も殆んど同様で、当時から既に今日の状態が決定されていたようである。
喜連川丘陵地は、第二次海底化時代迄は扇状地地域と同様の状態にあったが、その後の陸地化時代に入るに従い、那珂川の浸蝕力が強大となり、そのために前には塩原町相沢、矢板市山田、土屋より烏山に通ずる断層谷を流下した箒川は、佐良土、福原、佐久山、薄葉、平沢へと進んだ現在の箒川の流路をたどる頭部侵蝕谷の発達の結果、遂に山田付近において河川争奪現象が起り、江川は遂に截頭河川となり、無能川化して、その侵蝕力は微弱となり、更にこの江川、矢板市―佐良土南部、矢板市―烏山各線に囲まれた三角地域は一つの分離丘陵となり、他より流下する河水および地下水侵蝕を受けず、ただこの地域内に発源する細流により、除々に侵蝕を受けるに過ぎぬ状態となった。そのため侵蝕速度も遅くしかも先細り状となり、谷頭部は凹地状化をみるに至り、水田用水不用季の降水を溜池を設けて蓄水し、田植期にそれを流出して、使用せねばならぬこととなったのである。