鮮新世終末期より洪積世中期には再び沈降時代となり、前期陸地化時代侵蝕を免れた丘陵地頂部を除く大田原大部の地域は再び海水面下に没し、堆積作用が盛んに行われるに至った。この期の沈水は、単なる沈水ではなく、一度沈水の後また隆起し、その後また沈水と繰り返され、この沈水隆起は、地形及び地質上からみて二回以上の繰り返しがあったことが数えられるのである。
初期沈水面は略現在の海抜二百五十メートル線に、二回目は二百メートル線に相当するものと思われる。今日この高度の地が、ほゞ水平に近い平坦面を示しているのはこのためで、羽田の長者平より北及び南に拡がる平坦面、小滝東部台地より北金丸の湯坂東部台地の平坦面、富池、船山北部より小滝西部、金丸原に渉る平坦面となっている。西部丘陵頂部附近では僅かにそれを認め得る程度に過ぎず、それは前期隆起時代における侵蝕の激しさにより、侵蝕残丘は平坦面形成の広さを持たなかったためではないかと思われるし、それを証するものとしては、丘陵は東部のそれのようには連続せず、各部に孤立してただ過去における連続を予想させているに過ぎない。
なお地域全体が東より西に傾いて沈下が行われたのではなかろうかとも予想され、那珂川、箒川の流路が断層線の西部にあり、また前記河川及び蛇尾川が右岸侵蝕を行いつつ侵蝕崖を形成しているのも、このためであるようにも考えられるのである。