ここは刈切より千丈橋を渡り、大和久に通ずる県道の最低位部より上面平坦部まで約二十メートルあり、その間に赤土またはそれに準ずる土が時間を挾んで九回以上に渉り堆積されたことが観察される。その内下部二層は露出部少なく明瞭でないが、上部七層はその堆積状況が明瞭で、当時の沈積状況がよく観察されるのである。
洪積世前期より後期には、那須、高原、男体、赤城、棒名等の山々は火山活動も著しく、酸化鉄を含んだ火山灰を多量に噴出、関東一円に堆積した。関東ロームといわれる赤土がこれで、厚いところでは十メートル、薄いところでも一~二メートル、この大田原地域でも、その後削り去られ、礫を堆積した地域外はすべてこれに覆われている。
その噴出は前期のように時間をおいて行われ、堆積途中に侵蝕を受けずに堆積した場所では、それらは順序よく整合層序を示している。大和久の切通しはこれに当たり、その過程を知る上での貴重な場所である。
最上部の表土層は、厚さ一メートルの黒色の腐植土で水による選別の跡は全くみあたらず、またその分子も極めて細かい点からこれは風による運搬堆積物と考えられ、これは他の地域においても表土が僅かに存在する所も多く、また一部には(大田原養老院前道路、小川行県道より鹿畑への切通しなど)他の地層間に厚く堆積した場所もあるが、このような所は、前期のような厚さに一面に覆われ、大体堆積したまゝ左程の侵蝕もなく残されたものと思われる。
大和久地層断面図表
第二層はその厚さ一・二メートル、上層部淡黄褐色で最下部に水による選別沈澱したと考えられる砂層が約五センチメートル、第三層は厚さ約三・二メートル、ここは更に三層に別れ、最上部は水による選別を受けていない黄褐色土(一・四メートル)次の層は内部に円礫を含む黄褐色土(一・六メートル)最下部には砂層二十センチメートル、第四層は厚さ二・三メートル、上部は黄褐色土一・九五メートル、下部は暗褐色の鉄分を多量に含有し固結した層三十五センチメートル、第五層は一・五メートル、上部は暗色土一・五メートル、下部は暗褐色にして鉄分を多量に含有した重い層十センチメートル、第六層は厚さ一・六メートル、上層は前者より更に濃褐色土層一・六メートル、その下部はこれまた前者より濃い暗褐色を呈し、鉄分を多量に含有した重い層八センチメートル、第七層は厚さ約五メートル、暗褐色を呈した赤土層で、下部は約十五センチメートルの黒褐色に近い重い層となり、第八層は約一メートルの暗褐色層、第九層は更に暗褐色土で厚さは不明であるが七~八メートルあるいは更に厚い層と思われる。
以上の状態から地層生成当時の状況を考えると、第三層の最上部を除いた第二層から第七層まですべて下層部に水中沈積の結果生じたと考えざるを得ない重い層が存在する点からこの地方は当時海水面下または湖水面下にあったことが予想されるのである。然し湖水の存在を予想するとすれば、その後の地盤隆起の結果として湖の四周に湖岸段丘の存在と、前に記した軽い浮石集積地が存在しなければならず、また湖成化石も発見されるはずである。然るに今日まで全くそれらは発見されず、一面近隣地からは浅海性の貝化石が発見されており(渡辺留吉那須野の科学)また福原から小川町淨法寺に至る箒川右岸には、海蝕崖と見られる地形発達等から、地質時代の極めて新しい時代まで附近は海であったことが想像されるのである。
次に噴出物の堆積状況を考えると、噴出物の堆積回数は六回、更に下層堆積回数を数えると八回以上となる。以上の内第三層中位層中に内礫の存在することは、降灰と同時に一方河水による堆積の行われたことを示して居り、最上層で水による選別が行われていない点から陸地化時代を物語り、その上層、即ち第二層には円礫の存在が認められない点から、この期には再度沈水作用が起こり円礫流入が行われず、その後の陸地上昇当時はこの地に流入する河は存在せず急激な上昇となり、更に風による運搬物と考えられる最上層の有機物含有の黒土層の堆積となったものと考えられる。
なおこの地の対岸、宇田川地内の蛇尾川侵蝕崖も上部の礫層を除いて殆んど同様の堆積をみ、赤瀬の地名さえ起こり、現在の蛇尾川流路は以上の地層発達後のもので、比較的新しい時代のものである。
以上によりこの地域は洪積世末期近く僅かに陸地化が行われた外は、二百メートル以下の所赤土層堆積当時は海水に覆われていたものと考えるべきであるように思う。