(六)、第三次陸地化時代

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 洪積世末期よりこの地は再び地盤上昇期となり現在に至っている。
 この期の地盤上昇速度はかなりに大であり、第四氷期末期より数えて三~四万年で二百メートル程の隆起をみたことになる。なおその隆起様相は連続的でなく、時間をおいて三~四次あるいは更に多くの回数に達するのであろうと推察されるが、地域内で明瞭に観察されるのは三次までである。
 地盤隆起を示す一証左は段丘であり、この地域内では河岸段丘がそれを記録しており、段丘の数はその隆起の回数を示すものである。まず前記大和久地区間においてそれが観察される。即ち第一段丘は最上部二百メートル近い平坦地、第二段丘は千丈橋を西より東にわたりみられる砂礫段丘及び赤瀬裏段丘、第三次は大部分の家の屋敷、水田、畠地となっている低地である。更に大規模で明瞭なのは佐久山岩井橋を挾んだ佐久山、滝沢の箒川河岸段丘で、佐久山市街地の大部分を占める最上部平坦部と滝沢地間内平坦部は第一段丘に当り、その下部には両崖共に第二段丘に当る平坦地があり、更に最下部河岸に至る平坦部が第三段丘となっている。
 かくして本地域は最後の陸地化後、先史人より現在のわれわれに至る人々の生活の場となったのである。然しそれは単に海底の陸地化の場所ではなく、礫の存在、土地の凹凸肥痩、地下水の深浅、泉地の存在など各地各様の相を示し人々の生活はそれらと深い結びつきをなしている。化学肥料施用前の農業は自然の肥土地を求めて営まれ、旧村といわれる人々の住居地、あるいは先史人の住居跡は自然泉及び自然流水附近に限定されることなど、更には武家時代の豪族達は水源地をいずれの勢力下に収めようとして争いを繰り返した歴史の跡を振り返ってみると、それらの土地状況の成立史こそ最も重要な問題であったものと思われる。