(2) 熊川流路の変遷

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 山地より流下した水は始めは東南方向の流路をとっていたようであるが、前期の那珂、木ノ俣両川の堆積砂礫のため、山麓線に沿って西方へ押し移され、黒磯地内においては現在の流路を中心とした東西約二キロメートルの間を移動しつつ大田原市今泉へ流れた。その後那珂川流路が東部山麓へ移り扇状地中央部への堆積が止むと同時に今度は西部蛇尾川の流下砂礫が黒磯市洞島附近より東部へ押し出し、熊川流路を漸次東へ東へと移し、遂には黒磯市波立方京地内から鹿野崎―金丸原台地丘陵列を横断して東部へ移り、前に那珂川により堆積された砂礫層の上へ更に砂礫を堆積しつつ、黒磯市波立、唐杉、弥六、沓掛、東小屋、大原間、三本木、沼野田和、木曽、大田原市富池、鴻ノ巣、市野沢、小滝、中田原、北金丸、南金丸を流れ、元黒羽駅附近で那珂川に注ぐに至った。なお、この間においてもその流路の変遷は絶えず行われ、それらは当時の流路を示す礫及び白色粘土地帯の連続によりたどることができる。
 礫の連続地としてはまず前記の波立唐杉―弥六―沓掛―東小屋―三本木―鴻ノ巣―市野沢―小滝東部―北金丸東部より余瀬南部に至る線、及び方京より大原間神社前―沼野田和東部―富池吉際東部―市野沢西部―小滝神社近くより前記の線へ続く線、更にその西部沼野田和中央部より木曽―吉際西部より前記の丘陵列を再度西へ横断し富池舟山―中田原中央部―奥沢―鹿畑―倉骨西部へ続く三線がある。
 右の三線のうち最後の流路には細礫、砂及び白色粘土が深く堆積し緩やかな流れが長期にわたったことを物語っている。なお白色粘土は黒磯市の百村山地の一部を構成している酸性白土が侵蝕され流下堆積したもので、これの堆積した地帯の土壌は酸度が極めて高い。(PH5に及ぶ所もある)この白色粘土堆積地帯は、その間に砂層がレンズ状に挾まり、地下水の揚水が困難な上、水はけの不良の地となっている。なお金丸に脱ける一線では北金丸地内の一部に白色粘土堆積が行われており、熊川流路であった一証左となっている。木層畑中・富池・吉際東部を通る一線は礫が多く白色粘土層は未だ発見されず、一時的洪水の結果の流路を予想させている。
 以上の三線の外、荒井、町島、上奥沢への流路をとった時代もあるのではなかろうか。