(4) 箒川流路の変遷

32 ~ 32
 塩原カルデラに湛水して生じた塩原湖は、鮮新世末期より関谷付近で瀑布となって流下、矢板市相沢より矢板市街西部へ、後には同市山田より江川への流路をとっていたが、佐久山北西部への河谷侵蝕が進むや、流路をここへ転じ、江川の如きは無能川化してしまった。東部へ移った箒川流路は現在よりも更に東にあり、一方関谷付近に生じた瀑布は、山間に峽谷を穿ちつつ後退に後退を続け、塩原湖は湛水を全く流失し、当時湖底に沈積した木の葉、藻等は現在塩原木の葉石化石として発堀され、また瀑布後退の跡は塩原渓谷となってその美をうたわれている。
 かくして侵蝕、破砕された岩礫は、河床を転流し河道にそれを運搬、堆積して行った。野崎地区の大部分、親園地区の滝岡、滝沢、佐久山地区の佐久山市街地、大神、福原、松原地区の殆んどはこれが堆積物で、それが移動のあとは以上の地区に発達した段丘によって知られる。なお佐久山市街地最上部、県道東側の崖の赤土層下の堆積物は凝灰炭を多量に含んだ河川層で、この部分を流れた時代は凝灰岩噴出物であることを物語り、またその後の河流が如何に激しかったかは、箒川左岸松原地区より小種島に至る河蝕崖面に挾まる河水運搬層の状況を観察することによって知ることができる。
 以上四川の外、那須野西北部断層崖より流下した小河川も同様に山地より低地への礫を運搬し、那須野盆地を埋めてゆき、ここに各河川による合成、合流また山麓部では複合による大扇状地を形成し、大田原地区はこの扇状地の末端部に位している。