近代にはいっては、まず、旧大田原中学校教諭渡辺喝山先生の精力的な調査があり、現在大田原高等学校に収蔵されている数々の遺物は、遺跡破壊が進行している今日、われわれ後学のものに貴重な資料を提供している(2)。しかし、本格的な学術調査は、史前学研究所大山柏先生による旧狩野村(現西那須野町)槻沢遺跡の発堀調査をもって嚆矢とするといえよう(3)。
次いで、同じ頃より那須古文化研究所渡辺龍瑞氏による多年の研究は、栃木県北部地方における繩文文化の編年学的様相を明らかにされた(4)。第二次世界大戦後は、郡内各地で学術団体、研究者、市町村当局等による発堀調査がすすめられ、その研究水準は一段と向上されつつある。
ひるがえって、本市をみるに、その立地条件から、遺跡数の少なさにもあるが――もっとも、これも調査が不十分なためかも知れないが――比較的研究がおくれている。本市における学術的な調査は元宇都宮大学教授辰巳四郎氏、前記渡辺龍瑞氏による北金丸、湯坂遺跡の発堀調査(5)、高宮隆氏による平林、真子遺跡の継続的調査から発展した辰巳、渡辺両氏による発堀調査(6)、県教育委員会竹沢謙氏の指導による長者平西遺跡の発堀調査(7)など大田原市教育委員会が主体となっておこなわれたものがあるにすぎず、その研究水準は他の地区に比して相当おくれているといわざるを得ない。とくにこの市史編さん事業にあたっても特別な発堀調査は計画されなかったので、本稿では諸先学の業績や表面採集によって得た限られた資料により、本市の先史文化の概要を報告するにとどめたい(8)。
〈注〉
(1) 斎藤忠「日本の発掘」
(2) 渡辺喝山「那須野の科学」(昭和二十八) 紫塚同窓会
(3) 池上啓介「栃木県那須郡狩野村槻沢石器時代住居趾発堀報告」(一)(昭和十)史前学雑誌 七巻五号
池上啓介「栃木県那須郡狩野村槻沢石器時代住居趾発堀報告」(二)(昭和十一)史前学雑誌 八巻一号
(4) 渡辺龍瑞 「那須郡の先史文化」 (昭和二十八) 下野史学 二巻
(5) 渡辺龍瑞 「栃木県大田原市湯坂遺跡」 日本考古学年報 (昭和三十八)一〇号
塙静夫 海老原郁夫「栃木県大田原市湯坂遺跡」(昭和四十三) 日本考古学年報 十六号
(6) 辰巳四郎 渡辺龍瑞「栃木県大田原市平林真子遺跡」(昭和四十四)日本考古学年報 十七号
(7) 昭和四十八年四月 発堀調査 報告書は未公刊
(1) 斎藤忠「日本の発掘」
(2) 渡辺喝山「那須野の科学」(昭和二十八) 紫塚同窓会
(3) 池上啓介「栃木県那須郡狩野村槻沢石器時代住居趾発堀報告」(一)(昭和十)史前学雑誌 七巻五号
池上啓介「栃木県那須郡狩野村槻沢石器時代住居趾発堀報告」(二)(昭和十一)史前学雑誌 八巻一号
(4) 渡辺龍瑞 「那須郡の先史文化」 (昭和二十八) 下野史学 二巻
(5) 渡辺龍瑞 「栃木県大田原市湯坂遺跡」 日本考古学年報 (昭和三十八)一〇号
塙静夫 海老原郁夫「栃木県大田原市湯坂遺跡」(昭和四十三) 日本考古学年報 十六号
(6) 辰巳四郎 渡辺龍瑞「栃木県大田原市平林真子遺跡」(昭和四十四)日本考古学年報 十七号
(7) 昭和四十八年四月 発堀調査 報告書は未公刊
(8) とくに大和久震平 塙静人両氏の共著になる「栃木県の考古学」(郷土考古学叢書、吉川弘文館)および渡辺龍瑞氏の諸著作に負う所が多く、ここにあらためて謝意を表したい。