第二章 先土器文化

40 ~ 43
 本市はもち論のこと、本県における先土器文化時代の研究は、繩文時代のそれにくらべて、ややおくれていたが、早くからその存在は注目され、昭和三十年代より、県内各地において、関東ローム層中から、旧石器の出土が相次いでいる、とくに、栃木市星野遺跡(1)、真岡市磯山遺跡(2)の発堀調査の成果が報告されるにおよび、一躍両遺跡は先土器文化の代表的遺跡として脚光を浴びるようになり、本県における先土器文化の編年学的研究も一段と進歩した。
 本市においては、先土器遺跡の学術的な発掘調査はなされていない。県北地方では、那須町逃室遺跡(3)の発掘調査がなされている。

大田原市遺跡地図

 昭和三十五年六月、筆者(小林)は、当時佐久山中学校一年生の宇田栄子さんから一個の打製石器を示された。なにげなく出されたその石器は筆者が今まで見た石器とは全く異なるものであり、先土器文化のそれと極めて類似しているものであった。これは、先土器文化所産の石器ではないかと思ったものの、当時県内では、先土器遺物の出土例はすくなく(4)、半信半疑の状態であったが、その後、辰巳、渡辺両氏の鑑定により、旧石器文化の遺物であることが判定した。(写真一…琵琶池遺跡 二…琵琶池出土石器)

写真1 琵琶池遺跡
この水田の中央部前方の土堤から旧石器が出土した


写真2 琵琶池出土の旧石器

 この石器は、本市藤沢・宇田博哉氏の水田から出土したものである。出土地は琵琶池部落の東部丘陵地帯の南西面のふもと、傾斜地から水田に移ろうとする所で、水田面との比高約二メートルの地点である。宇田氏によると昭和三十四年四月ごろ、この部分を「地下げ」して水田にした際、約三〇センチメートルの黒土を除去した赤土の上部より出土したとのことである。
 石質は阿久津純氏によると石英粗面岩ないし頁岩、灰褐色で部分的に灰色の班点が見られる。全長約一三・四センチメートル、最大幅約三・七センチメートル、断面は旧石器ポイント特有の台形の剥片石器である。背面にのみ加工がなされ、同方向より三面に剥離し、その縁部から先端部になるに従いその刃部に精細な剥離がなされている。先端部は相当に鋭くなっているが左右に対称でなく一方にやや偏している。おそらく、これは一度完成された石器がなんらかの事情で、その先瑞を破損したため再加工・修理してできた傾きではないかと推測される。石器は当時の人々にとって最も貴重な生活用具であったため、このような石器の使用がおこなわれていたものであろう。
 その後、昭和三十六年一月、小林敏夫氏は、辰巳四郎氏らとともに現地を調査したのをはじめ、数回この遺跡附近を調査したが現在までその成果はない。この石器が無土器文化の尖頭器(ポイント)であることは諸氏の意見により一致している所であるがこの編年学的位置は確定していない(5)。またこの石器がはたして当初よりこの地にあったものか、東部の丘陵地帯のローム層の崩落により、あるいは上流方面より流出して来たものか断定することはできない。
 いずれにしても、この石器が出土点と出土状況が明確にされている市内最古の先史遺物であるということは事実であり、今度この付近一帯の精査がのぞまれている。
〈注〉
(1) 芹沢長介編 星野遺跡(第一次発掘調査報告)(昭和四十一)。同、第二次発掘調査報告)(昭和四十二)。同、第三次発掘調査報告。

  (2) 芹沢長介 栃木県磯山遺跡 日本考古学年報、十五号
(3) 辰巳四郎・渡辺龍瑞・阿久津純ほか、栃木県・那須町 脇沢遺跡・迯室遺跡調査報告書、那須町教育委員会、昭和三十九

(4) 当時、本県内の無土器文化の遺跡としては、塩谷町鳥羽新田ほか若干が識者の間で話題になっていた程度であった。

  (5) 海老原郁雄 大田原市佐久山発見の石器、(下野史学 十六号)
文保委編 全国遺跡地図(栃木県)では遺跡番号五一四として記載されている。(実際には遺跡地図に記載されている地点よりも東南方約四〇〇メートルの位置である。