文化財保護委員会編、遺跡地図(栃木県)(昭和四十年)では、本市内の繩文遺跡は八か所しか記載されていないが、当時すでに少なくとも約五十ケ所以上の遺物散布地が発見、紹介されており、未踏査の部分も多いので、今後さらに増加するものと予想される。一方、昭和四十年代になって活発におこなわれた開田事業、農業基盤整備事業、大型農道、工業団地、住宅用地、ゴルフ場などの造成事業など相次ぐ土木事業は数多くの遺跡が調査もされないままに破壊されたのも事実である。ところで本市では前記のように本格的な学術調査の例はすくなく、表面採集と偶然な機会によって得た資料をもって、本市繩文文化について章をたてて論ずることはきわめて危険なことであり、不可能に近いことである。そこで本節では、本市内の主要遺跡を表面採集と先学の研究成果により紹介するにとどめ、その編年学的考察は他日に期したい。