大神前山遺跡

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 大神部落の南部の丘陵上にある。この丘陵地帯には箒川に注ぐいくつかの小さな沢が横断し、それらの沢を見おろす台地に土器片が広く散布している。この遺跡も、実際には特定の地点を指摘できるほど多量に出土する場所はないが、西は大神記念碑南方の台地上より、東は福原サンノウ付近にまで及んでおり、ここでいう大神前山遺跡とは、これらを総括していっているものである。特にこの中でも、大神向久保、太子堂上、小富士権現北西部の台地(大神七五九番地)、大神集乳所上の鞍部付近で、土器片、石鏃、土製管玉、打製石斧などを採集している。
 土器片から見ると、多くは円筒形深鉢で、口縁部は平縁になっているようだ。底部は採集例がないので推測することは出来ない。口唇部には半截竹管による平行沈線文が施文され、その下部には半截竹管による斜状平行沈線文、鋸歯状平行沈線文などがあり、まれには、この沈線文の間に刺突文を施したものもある。また胴部には半截竹管による弧線、連続竹管文、竹管の押型などが見られる。繩文は少なく、一部に斜繩文が見られる。土器片の多くは、うす墨色、赤褐色、灰褐色を呈している。
 太子堂上からは、長さ約三、四センチメートル、最大直径一・五センチメートル前後の中太・中空の土鐘を多量に出土している。また、集乳所上の鞍部から採集した口唇部の土器片には、破損した縁にそって、石錐で穿孔したと思われる孔があるものがある。(写真4)これは、この土器が煮沸用具として使用され、胴部以下が炉火にかけられて熱せられ、熱の受け方に上部と下部の間に不均衡が生じ、その結果できた口唇部のひびを補修するために作られたものと考えられている(3)。

写真4 大神前山遺跡出土前期繩文土器

 以上のことから考察すると本遺跡に出土する土器は諸磯式の系統に比定されるもので、そのB類と考えられる。しかるに、昭和四十年代前半の開田事業の進歩にともない、この遺跡の西半分(大神記念碑上、小富士権現北西部の台地、大神集乳所上の鞍部など)は、昭和四十二年春、全く破壊されてしまった。ついで昭和四十七年以降のゴルフ場の造成事業により、その全域はほとんど壊滅してしまった。
 このほか前期に属するものとして、佐久山地区では、大沢火葬場附近、佐久山赤坂、福原上町萱場などの遺跡をあげることができる。とくに赤坂の切通しの面のローム層には昭和四十二年春の採土作業の結果、堅穴住居跡を望見することが出来、そこに、前期に比定される土器片が挾在していた。(写真5)しかし、この遺跡も昭和四十三年ごろ開田され姿を消してしまった。

写真5 赤坂遺跡・露頭調査に見られた住居跡

 佐久山地区以外の前期の遺跡として、南金丸、(金田南中付近)(4)、平林、五本木、実取、舟山、などが報告されているが詳細は不明である(5)。