繩文中期に比定される遺跡としては、ほかに次の各遺跡が確認されていたが、すでにこれらの中には各種土木事業により破壊、消滅してしまったものもある。(※は渡辺喝山氏「那須野の科学」による。)
大田原地区
○原町、※富士山下 ○平林真子
親園地区
○五本木 ○砂の目 ○吉沢 ○長峰山 ※実取 ※三色手 ※滝岡
金田地区
○長者平西(11) ○北金丸頭無 ※羽田 ※富池 ※舟山
写真9 羽田長者平西遺跡の住居趾
写真10 長者平遺跡出土の繩文土器
(大田原市公民館蔵)
佐久山地区
○大沢記念碑裏 ○大沢火葬場裏 ○葉の木沢 ○高橋記念碑 ○高橋公民館東 ○ツブレ坂上東 ○平山溜 ○琵琶池公園(12) ○福原南部ナナマガリ ○福原堀の内
野崎地区
○繩落(なおろし)遺跡 (下石上繩落)
昭和三十一年~三十二年にかけて大田原市下石上稲見寛氏の畑を開田した際、この地から多数の石器や土器が出土した。現薄葉小学校勤務の藤田鴻輔氏がこのことに気付き、これらの石器(石斧、石皿、敲石、石鏃等二十数点)および土器片などを貰い受け、丹念に拾い集めて複元したものが写真12・13である。
写真11-1 繩落遺跡出土の繩文土器
(藤田鴻輔氏蔵)
写真11-2
写真11-3
これらの遺跡から出土している土器は大部分が阿玉台式に比定されるものであって、これについで加曽利E式が多い。もともと阿玉台式土器は霞ケ浦沿岸を中心に東関東一帯に広く分布するものであって、これと併行する時期のものと考えられる勝坂式土器が西関東から中部山岳地方に多く分布するのと全く対照的なひろがりを示している。那須北部にも勝坂式に比定される土器が報告されているが、本地区では阿玉台式比定土器が圧倒的に多いことは興味ある事実である。あるいは、これは阿玉台式文化の広がりが那須野原と東関東とを結びつけている那珂川となんらかの関係があるのではないかとも考えられる。