一般的に中期中葉から後期中葉にかけて遺跡の規模は大きくなり、新しくなるほど定着性の濃厚な集落が形成されてくる。また集落立地も、中期までは、台地上の平坦面や、谷との比高が比較的高い場所の斜面に発達していたが、後期後葉以後になってくると、比高の少ない場所に移動し、時には低湿地や、河川の合流点に発達した沖積低地に形成されることもある。これらの点から推して、現在では、この期に農耕とはいわないまでも、植物栽培による定着した集落を考える学説も出ているが、ここでその可否を論ずることは避けよう。
ところで、本市内では、調査のおくれもあるが、この後、晩期に比定される遺跡はきわめてすくなく、遺物の採集例も稀である。そうしたなかで、昭和三十九年以後二次にわたって発堀調査された平林真子遺跡はいろいろな意味で貴重な資料を提供している。