平林真子遺跡(13) (大田原市若草、旧平林真子)

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 この遺跡は古くから、高宮隆氏によって、調査がなされていたが(写真14)、昭和三十九年と四十年の二次にわたり、本市教育委員会が辰己四郎、渡辺龍瑞両氏の指導より発掘調査をおこなった。
 本遺跡は平林公民館の北側から東部にまたがるもので、調査者は東西二区にわけて発掘調査をしている。すなわち、公民館北側を西区、それより東南二〇〇メートルの雑木林内の地点を東区とした。東区の東方、約三〇〇メートルの所を蛇尾川が流れている。また、大田原市街地より来る善勝川が西地区の東方を流れ、東区の北側から東方の裾を流れて蛇尾川に注いでいる。
 二次にわたる調査により、二つの敷石住居跡と配石遺構、後期堀之内式土器を主体として、中期阿玉台および加曽利E式の土器・その他土版、土偶、石鏃、石斧、石皿、敲石など多数の遺物を出土している。
 敷石住居跡は繩文中期の後半から後期の前半にかけて、構築された住居跡で、床面に平らな石を敷きつめ、アンペラ、枯草などを敷いたものと考えられている。多くは円型ないし不整円型であるが一部に矩型に近いものもある。また、住居跡内の全面に敷石を構築したのと、その一部にのみ敷く場合があるが、その中央部付近に、石囲炉がつくられているのが普通である。いずれにしても、この種の住居跡は、東京、神奈川、埼玉を中心に西関東から甲信越地方に分布するものであり、本県では、当時この遺跡が唯一の発掘例といわれていた。

写真12 平林出土の繩文土器(高宮隆氏蔵)

 西区第一号住居跡は、直径約五メートルの円型で大小多数の川原石と割石を敷きつめているが、床面の東隅は破壊されており確認することができない(写真13-1)。中央よりやや東寄りに六個の川原石によって構築された炉跡があり焼土もみられている(写真13-2)。

写真13-1 平林真子遺跡西区一号住居跡


写真13-2 平林真子遺跡西区一号炉跡

 西区二号住居跡は、一号跡より小規模であり、直径約三・五メートル円型プランである。石囲炉はなく、炉跡と確認できる道構、遺物も発見されない。
 この調査で、東西両区からそれぞれ配石遺構が発掘されている。その一は、西区の敷石住居跡に接近した帯状配石遺構で、西区三号配石遺構と名づけられている。これは、長径四〇~五〇センチメートル、短径二〇~三〇センチメートル位の細長い川原石を二~三列に並べたもので、幅約一メートル、長さ四メートルぐらいに配石した帯状の遺構である。この配石は東西に伸びているものとみられるものの完掘されていないのでその全様を知ることはできない。
 他の遺構は、東区第一号遺構(写真14)と呼ばれているもので、大小の川原石が幅二~三メートル、長さ九メートル位の帯状に配石された遺構である。

写真14 東区一号配石遺構

 これらの配石遺構は祭祀場遺跡、墓壙などが考えられるが、いずれも全面調査がなされていないので結論をだすことはむずかしい。調査者は伴出する遺物よりこの遺構が後期堀之内式期に構築されたものとみている。いずれにしても、この遺跡は、今後精査をすすめたい遺跡であるが、本市では、ここを市指定文化財史跡とし、住居跡は保存処置がなされている。
 先にも記したように、本市内においては、この後、晩期に比定される遺跡は調査不十分なため僅少しか確認されていない。現在まで表面採集により、明確に後、晩期のものと断定できる土器片は一片もない。わずかに、藤沢、琵琶池のウマステバ付近より出土した土器片に晩期のものと思われるもの、藤沢より出土した土器片に安行系と思われるものがあるがいずれも出土数がすくなく結論を出すにいたっていない。
 渡辺喝山氏は、前掲書において、本市内にて発見された後、晩期遺跡として、大田原、平林(おそらく真子遺跡またはその近辺と考えられる。)・福原・羽田長者平(加曽利E・勝坂を伴出)・花園などをあげている。そのなかで福原で堀之内式土器と打製石器を採集している旨を記されているが、渡辺龍端氏の御教示では、福原ホンノオジ(堀之内)より堀之内土器、石鏃、凹石、石皿などを採集された由である。前者の正確な地点は現在では知る術もないが、多分後者とはそれほど遠くない場所かと考えられる。このように、この期の遺跡はきわめてすくないが、地形その他から類推(14)すれば、この期の遺跡の存在の可能性は充分にあるので今後の精査を期待したい。
〈注〉
   (1)、渡辺龍瑞氏のご教示による
   (2)、渡辺喝山、前掲書
   (3)、江坂輝弥 「先史時代、Ⅱ繩文文化(考古学ノート2)」 日本評論新社、昭和三二
   (4)、渡辺龍瑞氏のご教示による。
   (5)、渡辺喝山 前掲書
   (6)、渡辺龍瑞 前掲論文
   (7)、渡辺喝山 前掲書によると本遺跡より、勝坂式土器が出土している。
   (8)、鴫内小学校教論 加藤仁氏のご教示による。
 なお江坂輝弥氏は前掲書で、「関東北部の栃木県宇都宮市付近から大田原市、那須方面にわたる中期遺跡出土の黒耀石を調査するとほとんど、那須高原(たかはら)山産のもの」と記されている(同書、一〇三ページ)。この「那須高原山」が、「那須の高原(たかはら)山」を意味するのか、「那須と高原山」をいうのか、その文面からでは不詳であるが、後者として考えれば、この高原(たかはら)山の黒耀石とは、箒川上流の塩原山地、高原山産の黒耀石かと思われる。

   (9)、前掲報告書
   (10)、渡辺龍瑞 前掲論文
(11)、昭和四十八年四月に本市教育委員会により県教委竹沢謙氏らの指導により発掘調査がおこなわれた。報告書は未公刊なので、ここに詳細を記することはできないが、本市教育委員会、加藤忠氏の記録によると住居跡の袋状土壙などの遺構のほかに、土器片、石器類を出土し、繩文中期から後期初頭のものと考えられるとされている。

(12)、昭和三十六年当時の露頭調査では、あきらかに住居跡と思われるものと袋状土壙が確認されたが、その後削落してしまった。

   (13)、前掲報告書
(14)、佐久山葉の木沢より後、晩期に伴出する鍬形の打製石斧が多数出土しており、また平沢梶内及び杉山からは晩期に伴出する石棒や石皿、石斧、石鏃等が出土し土器は堀の内式に比定されるものが多数出土したが、昭和四十八年基盤整備によって水田となり、現在はあとかたもない。