第四章 弥生文代

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 本県における弥生文化の研究は繩文文化、古墳文化の研究に比しておくれていたといわれている。それは弥生文化の遺跡がきわめてすくなかったことによるものである。もち論研究そのものについては古い歴史をもち、すでに明治二十七年に小林与三郎氏は宇都宮市の野沢にある弥生時代の遺跡を発掘調査している。出土した土器のうちに、人面を装飾とした壺などがあって注目をひき、この土器の所属様式の決定にはいろいろな問題をおこした。この遺跡は野沢式土器の標準遺跡としてあまりにも有名になっている。
 しかし、本県の弥生文化は、西日本の弥生文化のように高度に発達した文化から見れば周辺文化にすぎず、――もち論それなりに重要な意義があるのだが――そのことが、研究者の目をひくことができず、ひいては研究をおくらせる結果になったものと考えられている。
 このことは、本市の場合さらに顕著である。本市でも、弥生時代の遺跡はすくなく、わずかに数カ所で土器片が採集されているにすぎず、全く研究、調査はおこなわれていないといっても過言ではない。
 このような状態であるから、ここで本市の弥生文化の様相を論考することは不可能であるので、単に遺跡名を紹介するにとどめる。渡辺喝山氏は前掲書において、本市内で弥生式土器を入手した地名として、
 大田原 大高校庭、
 親園 南区
 佐久山 大沢
 金田 長者平、奥沢、富池
を挙げられている。しかし、、これらの正確な出土地点は不明である。また岩瀬清氏は、
 平林 外真子、富池 松原前 (これはさきに渡辺喝山先生が発見された富池の遺跡とは別の地点である。この遺跡は近年の開田により発見された由である。)
 今泉 がんがら橋北(秋元善氏宅地)、富池 吉際西
などで弥生式土器片を採集している。さらに岩瀬氏は、これらのうち長者平、町島西山、今泉がんがら橋北を除いては低湿地に接したところであることを確認している。そのほか、藤沢、琵琶池、ウマステバ遺跡より採集した繩文土器片の中に弥生式土器ではないかとみられるものが一片あったが、確言はできない。
 以上がこれまでに知られている弥生時代の遺跡であるが、今後の調査により、さらに増加することが予想されるので、その研究を期待したい。