大和地方を中心にわが王朝の成立以来、都は多く大和の国を中心として置かれ、各地の地方豪族をその支配機構に入れ、各地に国衙や郡衙等もつくられ、小川町梅曽の那須官衙跡にみられるように、単に中央部大和地方のみの文化の発展のみではなく、地方の文化も次第に発展して、奈良時代の仏教文化が華(はな)を咲かせるまでを飛鳥時代と呼んでいる。
この時代のおもな歴史は、崇神天皇の四道将軍の派遣にはじまり、豊城入彦命の東国鎮撫、垂仁天皇の殉死の禁、景行天皇の代の日本武尊の東国遠征、あるいは蝦夷征伐、成務天皇の時代となっては、国力の発展と共に三韓、任那(みまな)など外国関係の発生も次第に多くなり、神功皇后の熊襲の平定と朝鮮半島への遠征およびこれに伴なって文物の渡来はますます多くなり、渡来人達の増加によりわが国の工芸等も中央部飛鳥地方はもち論、その文化の波は次第に各地方へと発展していったようである。
次で仁徳天皇の仁政と武内宿禰の東国遠征、雄略天皇の養蚕、機織の奨励、欽明天皇、敏達天皇の頃の仏教の伝来や、これに引き続く物部蘇我両氏の抗争、推古天皇の代の摂政聖徳太子の活躍による冠位十二階の制定や憲法十七条の公布、孝徳天皇の代の大化の改新、天智天皇の中臣鎌足重用、東北地方の蝦夷の反乱と阿部の比羅夫の遠征、天武天皇の飛鳥浄御原(あすかきよみはら)遷都など、ひたすらに開化への道を歩むこと約四百年、一方においては白村江(百済)の敗退、国内的には壬申の乱等を中心とする皇位の争奪等々、実に波乱に富んだ時代ということができるようである。
これらのできごとのうち、この遠い下野田とどれだけのかかわりをもったかについては、殆んど資料もなく、ただ残されている古書の中から比較的関係ありと思われる二、三について概記することとする。