わが下野の歴史は崇神天皇以前はほとんど知るよしもなく、飛鳥朝の時代から僅かに探ることができる程度である。
古事記や日本書記によれば、崇神天皇の十年西暦三〇〇年頃遠国の民が未だ皇化に服さないことを知り、四人の皇族を四方に派遣し、よく人民を愛撫し、もし反抗するものがあれば伐たせるという恩威の手段を用いさせた。すなわち大彦命を北陸道に、武淳川別命(たけぬかわわけのみやこ)を東海道に、吉備津彦命を山陽道に、丹波道主命を山陰道に遣わされ後世の四道将軍と称したのがこれである。このうち誰がわが下野の治安に当ったかについては、これを決定する資料はないが、伝えられるところによると北陸道を進まれた大彦命と東海方面に向った武淳川別命の父子は、多くの軍勢を率いて今の会津で相会したので、この地がしばらくの間相津と書かれたが後世会津と改められたともいわれている。
もしいい伝えのとおりであるとするならば、武淳川別命の軍勢が下野を通過したであろうことも想像され、この古い時代にこの地が朝廷の恩威の中にあったことも考えられ、あるいはこの地方が東夷と呼ばれた蝦夷との間にしばしば戦の行なわれた古戦場であったのかも知れないのである。
次いで崇神天皇の四十八年四月第一皇子豊城入彦命に東方十二国の治政に当らせ、命は父天皇の深く尊崇された大物主命(大国主命)の神霊を奉持して東国に下るため大軍を率いて遠征の途につかれたのである。そして当時「毛の国」と呼ばれた当地方の治安に一生涯を捧げ、やがて下毛野、上毛野の始祖となり、再び西国に帰ることもなく、本拠を宇都宮の地に定め、この地に没せられたためにその御霊(みたま)は永遠にこの地の鎮めとして宇都宮二荒山神社に祀られているといわれている。すなわち同神社が、東方十二国の鎮守の神であり、東国の民の信仰を集めていたゆえんでもある。
毛の国の語源については「毛人国」とか、「絹国」であろうとか、諸説多く定説はないようであるが、相当長い間にわたり西国方面からの勢に追われ、次第に東北の地に移る蝦夷族がこの両毛の地に住していたであろうことも想像でき、この地から出土する弥生以降の遺物がよくこのことを物語っているように思うのである。
那須の連山と那珂川がやがて大和、蝦夷両族の境界となり、一面外敵蝦夷に対する国境守備の大任を受け持つための重要地点としての那須国の存在は、やがて那須国が下野国に合併されて那須の郡となって後も、その重要さにはかわることなく、永くこの地が軍事、行政、文化の中心として西国の兵の駐屯も考えられ、小川町梅曽の那須官衙の跡や、湯津上村の那須国造の碑などがこれを物語る好資料であろうと思うのである。
そしてまた豊城入彦命の東国遠征にしても、那須国造の碑に記された国造那須直韋提(くにのみやつこあたえいて)にしても都を遠く離れた異境の地にあって人々の慰撫と軍務とのための苦労も大きかったことであろうことも考えられ、これ等駐屯の人達のなかには武器製造から一切の修理を担当するもの、傷病者の医療面の担当をするもの、その他諸々の仕事に極めて優秀な人材のあったことも予想され、早くからこの地に都の文化が移し植えられ、したがって生活の様式等も次第に都の風俗に同化しつつあったのではなかろうかとも思われる。
さらに大将軍たる命がこの地にあって没せられ、その輩下にあった多くの家臣のなかにはこの地に永住するものもあったであろうことも考へられ、次節の下野防人の歌にあらわれるように文武にすぐれた防人達があらわれたことも偶然ではないように思うのである。
豊城入彦命が没すると、御孫狭島王が郡から急派されたが、王は旅の途中信濃国で病没された。このことを知った天皇は王の御子御諸別王(みもろわけおう)を遣わされたので、下野国の治政は豊城入彦命を初代として曽孫の御諸別王に受け継がれたこととなる。
豊城入彦命の略系
これらの王達の墓は両毛の各地に祀られているが、那須町芦野の奈良川は奈良別王ゆかりの所と伝えられ、又馬頭町旧武茂村松野の二荒山神社は宇都宮のそれと同じく、豊城入彦命と大国主命を祭神とし、あるいは烏山町旧七合村の谷浅見の地には示現(じげん)神社があり、この地もかつては宇都宮の二荒山神社の氏子であったともいわれ、この他東国の各地には豊城入彦命を祀るゆかりの地が多いようである。