万葉集の「東歌」の部に下野の地から遠く九州の地に赴き国防の第一線に出で立った幾多無名の若い壮丁たちのなかには、今奉部与曽布(いままつりべのよそふ)のように喜び勇んで出征したものもあったようであるが、多くは父母妻子との別れを惜しみ自分の行く末などにも不安を感じながら、出で立ったのではなかろうかと思う。
この「東歌」の中に下野の防人のものが十二首ある。当時未開の地といわれた東国にあってなほよくこれ程の深い教養を身につけていた防人達を思うと何か胸がせまる思いがする。
今奉部与曽布(いままつりべのよそふ)
今日よりは かえりみなくて大君の 醜(しこ)の御楯(みたて)と出で立つわれは 大田部荒耳
天地の神を祈りて幸矢貫(さつやぬ)き 筑紫の国をさして行く吾は 物部真鳥
松の木の並みたる見れば家人の 吾を見送ると立たりし如(もろこ) (もろこは如しと同意か) 川上巨老(おうおゆ)(寒川郡)
旅行に行くと知らずて母父(おもしし)に 言申さずて今ぞ悔しけ (悔しは残念であるの意か) 大舎人弥麿(おうとねりねまろ)(足利部)
白浪のよろる浜辺に別れなば いともすべなみ八たび袖振る 大田部三成(梁田郡)
難波戸を漕ぎ出でみれば神さぶる 伊駒高嶺に雲ぞたなびく (梁田郡は足利郡に編入) 神麻続部島麿(かむおみべのしままろ)(河内郡)
国々の防人集ひ船乗りて 別るる見ればいともすべなし 文部(はせつべ)足人(塩谷郡)
津の国の海の渚に船装い 発し出も時に阿母が目もかも 津寄宿弥小黒栖
母が目も玉にもがもやいただきて 角髪(みずり)の中にあへまかまくも 中臣部足国(都賀郡)
月日やは過くは往けども母父が 玉の姿は忘れせなふも 大伴部広成(那須郡)
太小腹(ふたほがみ)悪しけんなり疝病(あたゆまい) 我がする時に防人に差す(ふたほがみは悪心の人をいう)
大伴部広成(那須郡)
防人に行くは誰が夫(せ)と問ふ人を 見るが羨(とも)しさ物思(も)ひもせずこの防人の制度は、始めは東国守備のためのものであったが、後には新羅の侵入に備えるために東国の兵士をもはるばる遠国の筑紫の果まで送ったものであり、古来から東国武人の勇猛さが大和地方のみでなく西海にも響きわたっていた証左であるようにも思うのである。
下野の防人たちが派遣されたのは、天平勝宝七年(七四八)の二月からであり、「二月十四日下野国防人部領使、正六位上田口朝臣大戸が進(おく)れる歌の数十八首、但し拙劣歌七首は取り載(あ)げず」と記されている。
これを東方諸国のそれと比較してみた場合、下野の防火達が他の諸国のそれに劣るものでないことを証拠立てているものである。次の表中上段の数は奉呈者数、下段の数は拙劣の故で除かれたものである。
遠江(一八―一一) 下総(二二―一一)
駿河(二〇―一〇) 相模(八 ― 五)
上総(一九― 六) 武蔵(二〇― 八)
常陸(一七― 七) 上野(一三― 八)
信濃(一三― 九) 下野(一九― 七)
駿河(二〇―一〇) 相模(八 ― 五)
上総(一九― 六) 武蔵(二〇― 八)
常陸(一七― 七) 上野(一三― 八)
信濃(一三― 九) 下野(一九― 七)
下野の奉呈歌一九に対して拙劣歌七首は他の諸国に比して決して劣るものではなく、古来勇武の気風のみでなく、文武の道に誇るべき人達であったことを思うと何となくほほえましい気持にさえなり、そして蝦夷国と国境を接していた那須国は、始祖豊城入彦命の東国経営以来、小川町梅曽の官衙跡あたり、或は湯津上村あたりを中心として、国境の守備にあたると共に教養高い下野人、那須人を作り出していったのではないかと思うし、それが梅曽の官衙跡として残り(写真1)、小川町の富士山古墳や、八幡塚古墳として残り、或は湯津上村の国造の碑(笠石神社)や(写真2)上、下待塚その他の円墳や前方後円墳や前方後方墳として往時の文化や繁栄の姿を物語っているように思うのである。そして昭和二十八年四月東京国立博物館の三木文雄博士が中心となり、その指導のもとに発堀調査を進められた八幡塚古墳の出土品のなかに、東国においては予想することもできなかった中国の後漢時代か三国時代初期のものと推定されるキホウ鏡(写真3)の出現をみたということはただただ驚くばかりで、これによって飛鳥の都とも大きな結びつきも考えられるような気がするのである。
写真1 小川町梅曽の官衙跡の礎石
写真2 湯津上村那須国造の碑
写真3 小川町八幡塚古墳出土のき鳳鏡
直径12.6センチメートル
縁厚3ミリメートル
頭に「至士三公」の銘がある