持続天皇の元年(六八七)三月、朝廷はわが国に帰化した新羅人十四人を下毛野に送り国司に命じて家や田を与えて生業につかしめ(一説にはこの帰化人を芦野の唐木田に住ませたといい「唐来田」から唐木田に書きかえられたものだという)、また同三年四月新羅人若干名を、さらに朱鳥四年(六九〇)八月にも同じ帰化人を下野に定住させたという。
(日本書記)。
かくて霊亀元年(七一五)五月には、相模、上総、常陸、下野、上野の富民千戸を陸奥の地に送り、
(元明天皇霊亀元年五月
庚戌(三十日)移シテ二相模、上総、常陸、上野、下野六国ノ富民千戸ヲ一配二陸奥一焉。)(続日本記)
同じころに駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の高麗人千七百九十九人を武蔵に移して高麗郡を設け、
(元正天皇霊亀二年(七一六)五月
辛卯(十六日)以二駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野七国高麗人千七百九十九人ヲ一遷シテ二干武蔵国ニ一始メテ置ク二高麗郡ヲ一焉。)(続日本記)
さらに養老三年には東海、東山、北陸三道の民二百戸を出羽国に移す
(天正天皇養老三年六月(七一九)
丙申(九日)遷シテ二東海、東山、北陸三道民二百戸ヲ一配ス二出羽ノ柵一焉
庚子(十三日)始メテ置キ二按察使一 令シム………
武蔵ノ国守正四位下丹治比真人県守ヲシテ一管セシメ二相模、上野、下野ノ三国ヲ一………
其所レ管スル国守若シ有レバ非三違及ヒ侵スルコト二漁百姓ヲ一則按察使ニシテ親シク自巡省セシメ量テレ状黜陟ス。其徒罪以下ハ断決シ、流罪以上ハ録シテレ状ヲ奏上セヨ。若シ有聲教ノ条々一修二部内ヲ一粛清ナレハ具ニ記シテ二善最ヲ一言上セヨ。)(続日本紀)
庚子(十三日)始メテ置キ二按察使一 令シム………
武蔵ノ国守正四位下丹治比真人県守ヲシテ一管セシメ二相模、上野、下野ノ三国ヲ一………
其所レ管スル国守若シ有レバ非三違及ヒ侵スルコト二漁百姓ヲ一則按察使ニシテ親シク自巡省セシメ量テレ状黜陟ス。其徒罪以下ハ断決シ、流罪以上ハ録シテレ状ヲ奏上セヨ。若シ有聲教ノ条々一修二部内ヲ一粛清ナレハ具ニ記シテ二善最ヲ一言上セヨ。)(続日本紀)
など、かつての蝦夷国内に大和族の進出が行なわれるにしたがって朝鮮の帰化人を送りこむなど着々と移民による開発政策が進められ、国守の他に按察使を置いて巡察するなど開発の仕事もようやくみちのくの地まで伸びようとしていたようである。なお、このような蝦夷地の開発には移民奨励の手段として生活の保障が与えられるばかりでなく、永い間無税の地としたことから、新天地へ大きな希望を持つものもでき、なかにはくいつめもの、すなわち徒衣徒食の遊惰の民の間にこの新天地にゆくことが流行し、宝亀六年(七七五)十月下野国内の陸奥移民がその数八百七十人におよんだため、陸奥国司において彼らを送還させようとしたことさえある有様であった。
帰化人(渡来人)の下野国移住については。これを証するものとして僅かに日本書紀にあらわれる程度であり、那須町芦野の唐木田や小川町の白久などが地名から考えて、新羅の帰化人の移住地ではなかったろうかといわれる位であったが、伊王野の渡辺竜史氏(渡辺龍瑞氏子息)がその卒業論文「栃木県那須郡発見の三渡来仏」のなかで、この問題をとりあげ、詳細に報告されているので、その一部を紹介する。