第三節 渡来人(帰化人)の移住

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 天武天皇の五年(六七七)五月下野国司から百姓たちが凶作のために餓え、その子を売ろうとしているものが少なくないことを報告されたが、朝廷はこれを許されない(日本書記)上代における天皇の政治は既に東方の遠隔の地にまで皇威がおよんでいたとみるべきで、蝦夷地までは皇化のおよばぬ地もあったが、下野あたりは大体において平和な生活であったものと考えられる。和銅六年(七一三)、多治比真人広成が下野国司に任ぜられた前の大化新政にあたり、早くも下野国司として幾人かの存在があったことを示しているが(広成以後は十数代にわたり中央部から派遣された国司であった)これより先、仁徳天皇の時奈良別王が下野国造に任ぜられて後、その子孫たちが国司に任せられたものと考えられる。
 持続天皇の元年(六八七)三月、朝廷はわが国に帰化した新羅人十四人を下毛野に送り国司に命じて家や田を与えて生業につかしめ(一説にはこの帰化人を芦野の唐木田に住ませたといい「唐来田」から唐木田に書きかえられたものだという)、また同三年四月新羅人若干名を、さらに朱鳥四年(六九〇)八月にも同じ帰化人を下野に定住させたという。
   (日本書記)。
    かくて霊亀元年(七一五)五月には、相模、上総、常陸、下野、上野の富民千戸を陸奥の地に送り、
   (元明天皇霊亀元年五月
    庚戌(三十日)移シテ相模、上総、常陸、上野、下野六国ノ富民千戸ヲ陸奥焉。)(続日本記)
同じころに駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の高麗人千七百九十九人を武蔵に移して高麗郡を設け、
   (元正天皇霊亀二年(七一六)五月
辛卯(十六日)以駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野七国高麗人千七百九十九人ヲ遷シテ干武蔵国ニ始メテ置ク高麗郡ヲ焉。)(続日本記)

さらに養老三年には東海、東山、北陸三道の民二百戸を出羽国に移す
   (天正天皇養老三年六月(七一九)
丙申(九日)遷シテ東海、東山、北陸三道民二百戸ヲ配ス出羽ノ柵
庚子(十三日)始メテ置キ按察使 令シム………
武蔵ノ国守正四位下丹治比真人県守ヲシテ管セシメ相模、上野、下野ノ三国ヲ………
其所管スル国守若シ有レバ非違及ヒ侵スルコト漁百姓ヲ則按察使ニシテ親シク自巡省セシメ量テ状黜陟ス。其徒罪以下ハ断決シ、流罪以上ハ録シテ状ヲ奏上セヨ。若シ有聲教ノ条々部内ヲ粛清ナレハ具ニ記シテ善最ヲ言上セヨ。)(続日本紀)

など、かつての蝦夷国内に大和族の進出が行なわれるにしたがって朝鮮の帰化人を送りこむなど着々と移民による開発政策が進められ、国守の他に按察使を置いて巡察するなど開発の仕事もようやくみちのくの地まで伸びようとしていたようである。なお、このような蝦夷地の開発には移民奨励の手段として生活の保障が与えられるばかりでなく、永い間無税の地としたことから、新天地へ大きな希望を持つものもでき、なかにはくいつめもの、すなわち徒衣徒食の遊惰の民の間にこの新天地にゆくことが流行し、宝亀六年(七七五)十月下野国内の陸奥移民がその数八百七十人におよんだため、陸奥国司において彼らを送還させようとしたことさえある有様であった。
 帰化人(渡来人)の下野国移住については。これを証するものとして僅かに日本書紀にあらわれる程度であり、那須町芦野の唐木田や小川町の白久などが地名から考えて、新羅の帰化人の移住地ではなかったろうかといわれる位であったが、伊王野の渡辺竜史氏(渡辺龍瑞氏子息)がその卒業論文「栃木県那須郡発見の三渡来仏」のなかで、この問題をとりあげ、詳細に報告されているので、その一部を紹介する。