(一) 遺跡

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 那須町役場伊王野支所より北西約二キロの地点にあたり、旧陸羽街道の宿駅芦野方向より南流してくる奈良川(那珂川支流)の西側丘陵(釈迦堂丘陵)上に位置し、川に向って突出する一支丘と、そのゆるやかな斜面にのっており、川からの比高は約二十五メートル内外で、丘下の川を軸に反対側にも丘陵がのび、その間の僅かな平地は狭長な水田地帯が展開する。
 大正の末期、東岩崎の通称堂平と呼ばれている地点を土地所有者であった故大野鎌之助氏が開墾した時、地表下約六十五センチのところに整然と配置された礎石のある建物遺構を発見し、さらにこの中心から東方約十メートルの地点からも附属遺構と見られる礎石群を発見した。礎石は数年前まで土壇上に整然と配置され須弥壇(すみだん)跡が残っていたようであるが、畑に変ったために、それらの礎石のうち動かせる程度のものは除いてしまった。しかし、その時動かせなかった四礎石が現在当初の位置のままで残っている。
 大きさは、長径一メートル前後、短径八十センチ前後の安山岩自然石で何時の世にか火災に遇ったらしく赤色を帯びている部分もあり、表面は、はねている。これだけのことならば、何かの堂跡だろうくらいで大した問題にはならなかったであろうが、始めに発見された建物遺構のほぼ中央の須弥壇附近から、一度火に遇った形跡のある鋳銅製の薬師如来座像が発見された。また当遺構地点から西方約四十メートル離れたところに大野清氏宅があり、その先代の清之助氏がやはり鋳銅製の釈迦誕生仏を背後の通称茶畑附近で偶然発見するなど貴重な発見が重なり、本遺跡の遺構及び出土仏のもつ重要性が指適された。