(一) 遺跡

94 ~ 95
 寺下遺跡は、北方小川町方向より南流する那珂川の西側に沿って南北にのびる喜連川丘陵上の東端に位置し、遺跡より東方は、那珂川の形成した河岸段丘となり、川を中心として東側にも相対して河岸段丘、丘陵があり、両丘陵間の東西約二キロメートルは、郡随一の沖積水田地帯となっている。遺跡は、小川町街より南方約五キロメートル、烏山町街より北方約七キロメートルの地点に位置し、町村合併までは、小川町白久下白久であったが、下白久だけが南の烏山町に合併された。
 遺跡は、その広大な平坦部の耕作地帯と西方の喜連川丘陵とが、複雑に交差する地点に所在し、低い東向きの一支丘中腹にあたる。もともと、この地点は土地の人々によって寺下と称されてきたところであって、その一支丘中腹は僅かに平坦な地を形成している。すぐ南は沢田が西に向ってのび、奥地は、休み坂と称される山道をもって、中山、志鳥、熊田へ、さらには県南方面へ通じる旧道となっている。
 明治四十二年秋、同番地の山本規矩氏の先々代の方が、倉庫建設のため西方裏の丘を整地したところ、鋳銅製の観世音菩薩立像が発見された。こうして出土した仏像の他には、何んらの遺物も検出することはできなかったし、未だ調査もなされていないので、果して前記堂平遺跡のような遺構があるか否かは明らかにできないが、附近にそうした遺構が発見できるかも知れないという可能性は考えられるであろう。