堂平・寺下両遺跡は、いわゆる東山道の下野通過最終点にあたり、那須郡を縦断する東山道が陸奥に達する直前の地点(黒川駅附近)に前者は位置し、後者は、それが那須郡に入った地点(新田駅と磐上駅の中間)に位置している。両遺跡の距離約二十四キロメートルの間には、五世紀の初頭から中葉の造営といわれる上待塚・下待塚古墳(共に前方後方墳)が、湯津上村にあり、小川町の八幡塚古墳(前方後方墳)は上・下待塚より時期的にさかのぼるものである。その他これらの古墳に近接して小古墳群が密集して所在し、当地域が早くから拓け、仏教文化を導入できるだけの高度な文化を有していたと考える。その近傍には、那須郡衙と推定されている梅曽遺跡が、その北々西五百メートルには奈良時代前期建立で、那須郡唯一の瓦葺きの寺院跡、浄法寺跡が所在しこの辺が、古代那須郡においても中心的地域であったことが知られる。また、堂平遺跡の南西七キロメートルには後期古墳の舟戸古墳都が所在し、北東一・五キロメートルの唐木田には、関東最北の唐木田古墳(方墳)や帰化人伝説等が残っていて、この辺は、東山道にそい那須郡における文化の中心地から程遠からぬ地点で、しかも八溝山脈の屏風一枚で陸奥と境しているという重要な地点であった。