第四節 上古の下野国産

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 文武天皇の二年(六九八)七月、下野と備前の二国から赤鳥を献じ、また同三年三月、下野国より雌黄を献ず。(続日本紀)―赤鳥とはやまどりか、また雌黄は那須火山の硫黄であろう―と記されている。
 延喜式によれば氈(かも)一枚下野国所進とあり、これとは別に調布三百六端(註、反と同じ)下野国交易、さらに布一千四百三十六端、商布七千三端などの古い記録があって、氈は毛織物他は木綿布のことである。
 また、下野国朱門牧場とあるのは、古い時代はこのあたりが野生馬の産地として知られ、朱門は朱間の誤字で都賀郡赤間であろうという説と安蘇郡彦間の誤りだという説もある。
 「本草綱目」には「日光黄蓮」「日光人参」を非常に貴重な薬草とし、この人参は朝鮮人参以前のもので奥白根山に自生しているとある。
 次に砂金百五十両下野国所進(内蔵寮式)また別に砂金百五十両、練金八十四両などとあり(民部式)「続日本後記」には承和二年(八三五)下野国武茂神に従五位下の位階を授けたというところで―此神砂金を採る山に座す―とあり「八雲御抄」に那須の淘汰金(ゆりがね)なる語がある。常陸との境に古来「金洗沢」なる山狭の地がある。「ゆり金」とは砂金を水でゆり動かして雑物を洗い流したということであろう。
 「歌枕名寄」に次の歌がある。
   下野の那須のゆりがね七はがね七夜はかりてあわぬ君かな               ―三宮―
   あふことは那須のゆりがねいつまでかくだけて恋にしずみはつべき        ―中務郷親王―
また、延喜式巻二、十三民部下交易雑物に下野国の産物として
  布、商布、牛皮、鹿角、席、砂金、紫草氈、儡子、麻、
が記されている。これは上野国、常陸国等と大同小異であるが、砂金を上納していることには大いに注目すべきであるように思う。