第五節 日本武尊の東国鎮撫

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 景行天皇(七一~一三〇)は東国の形勢がようやく安らかでないことを知り、長老武内宿禰(孝元天皇の曽孫、数代の天皇に仕えて長寿をもって知られた)を北陸道から東国の地に遣わされたが、しばらくして長途の旅から帰った宿禰の報告によると
「男女共に刺青(いれずみ)しもとどりを結び、男女雑居父子の別なく、冬は穴に住み、夏は巣に住み、毛を着、血を飲み、兄弟相疑う」とあり、また別に
「山に登ること飛鳥の如く、草を行くこと走獣の如く、恩を受くれば則ち忘れ、怨を受くれば必ず報ず。これを以て矢をもとどりの中にかくし、刀を衣中に佩(は)き、或は党類を集めて辺界を侵し、或は農家をうかがいて人民を略す。撃てば則ち草にかくれ、追えば則ち山に入る。故に往古以来、未だ王化に染まず。」

とあって、崇神天皇のとき、豊城入彦命を遣わされて以来、その子孫たちによって一応毛人(蝦夷、アイヌ)を服従させたはずであるが那須山を越えて南化する彼らの乱賊ぶりは未だに収まらなかった。
 わが下野人が飛鳥朝の先鋒としてこの地方に永住する当時は、右に述べた宿祢報告のような蛮民を相手にせねばならなかったことを思い、かのアイヌ部族のたくましい風貌の姿が、あの山この里に白髪を撫していた千七百年前の山川風土を改めて回顧する必要があるように思う。
 さて、景行天皇の皇子小碓命(おうすのみこと)は十六才の身をもって熊襲の反乱を平定し、酋長川上梟師(たげる)から「日本武尊」の尊号を奉られ、都に帰ると長老宿称の報告に接して、また東国鎮定の大任をおびられた。
 かくて尊は吉備武彦、大伴武日らの軍勢を率いて大和を発し、伊勢神宮に詣でて叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)からその後において三種の神器の一つとなった叢雲剣(むらくものつるぎ)を授けられて駿河に進み、土賊のために火攻めの危急におそわれたとき、その剣をもって草を薙ぎはらい、あやうく火難をまぬかれ、次で尊は駿河から相模に進み、海上を上総に渡ったが、暴風のためすでに危うくなられ妃弟橘姫の身代りによって辛うじて上陸、陸奥に赴き、転じて下総から日高見の国を過ぎ常陸を経て甲斐に向ったと伝えられている。
 さてこの日高見の国とは何処か。一書には下野国の日光山とあり、また陸前に「日高見神社があって、この辺の国名だという説もあるが、日本紀には尊が蝦夷平定の後「日高見の国より西南常陸を経て甲斐に入る」とあるところから、広く、上代における下野の美称ではなかろうかとの説をなすものもある。
 那須郡馬頭町に下野十一社の一つである健武山神社があって、古来尊を祭神と仰いでいる。和名抄に「健武郷」とあるのは武茂の文字の転倒したもので、健武を中心とする周囲十六郷を総合して武茂郷といい、後世に馬頭から分れて武茂(むも)村と呼ばれたが、最近になってまた馬頭町に編入された。
 尊の神霊が白鳥と化して天の一角に飛び去ったという伝説は全国各地に伝えられ、その白鳥の飛来したところ、すなわち尊の足跡を残した地に健武の郷名が生まれた。
 姓氏録には「健部公(きみ)は日本武尊の後なり」と記され、和名抄には「伊勢、美濃、出雲、美作(みまさか)、備前」には建部の地名が多いといっている。
 なお、尊の足跡をしのぶものに足利市の八雲神社と隣村山前村の大原神社とがある。前者は尊が出雲大社すなわち大国主命の神霊を祀って、この地の鎮守としたものであり、後者は尊が天照大神ら四柱の神を合祀した社と伝えられ、この辺を通って甲斐から信濃に向ったものといわれている。
 日本書紀によれば「尊は吉備武彦を越後方面に遣わし、自ら本隊を率いて、信濃、美濃、尾張に進まれ、宮簣姫(みやずひめ)と婚して後、近江の胆吹(いぶき)山に乱賊が荒れまわる由を聞き、草薙剣を姫に托して出陣、急病を発したため東国平定のことを天皇に報ずべく、武彦を使者として送り、はかなくもこの地にあって病歿せられた。御年わずかに三十才と伝えられる。
 尊の遣骸は鈴鹿山のほとり能褒野(のぼの)に葬られたが、尊霊は白鳥と化して天空に飛び去り、大和の琴弾原(ことびきはら)に天降り、後世この地を陵奥として「白鳥陵」と呼ぶようになったが、御霊は白鳥の姿で各地にとどまり、各所にその陵と称するものが伝えられている。