この碑銘の冒頭にある永昌元年の年号は、すなわち碑文の撰者である新羅の帰化人が、唐の則天武后の年号を仮に使用したるもので、恰も我が持統天皇の三年、朱鳥三年に相当する。思うに我が国の年号を用いなかったのは、撰文者が新羅人であったからとも考えられる。この碑は久しく草むらのなかに埋もれて、世にこれを知るものがなかったが、延宝四年(一六七六)奥州岩城の頭陀(ずだ)僧円順というもの当地に来て、この碑にまつわる怪異を聞いて、梅ケ平の里正大金重貞の許にいってこのことを告げた。重貞はこれを不思議に思い、天和三年(一六七五)六月、徳川光圀が馬頭村(水戸領なり)に来たとき、くわしくこのことを言上した。
貞享四年(一六八七)九月、光圀が再び馬頭村に来て、儒臣佐々宗淳に命じてこの碑の拓本を取らせ、文意を解読させたため。この碑の由来がようやく人々に知られるようになった。
写真5 那須国造の碑全文
元禄四年(一六九一)二月、光圀は重貞に命じて、風剥雨蝕から守るため新たに堂宇を建ててこの碑を安置した。
且つ翌五年、修験泉蔵院を置いてこれを守らせた。
同五年二月十六日、光圀は宗淳に命じて、上待塚および下待塚を発掘させて、誌石をさがさせ、この碑の主人公を明にしょうとしたが、何等手掛りを得るところがなかったので、墓を旧形に、もどすとともに修築を加え、松樹を植えて、その崩壊を防いだ。そして新たに鏡を鋳造し、左の銘を刻んで、この碑石の下に埋蔵した。
那須国造墓有レ碑、不レ勤レ名、啓レ墓索無レ誌、仍レ旧復修レ瑩、鳴呼斯人、有霊レ耶無霊レ、死者若有知レ、蓋レ鑒二我哀誠一
元禄辛未某月某日
元禄辛未は四年で、上下待塚を発掘したのは壬申五年の春である。那須記に載せた待塚発掘のときの告文に「元禄五年歳壬申春三月」とあるから、疑はないように思う。
右の鏡銘と前後しているのは少し矛盾しているように思う。しからば鏡銘に「啓レ墓索無レ誌」とあるのは、待塚発掘以前に、別の塚を発掘したことになるのであるがどちらか大金重貞の誤写であって、事実は待塚発掘の後に、新鏡を鋳造して埋蔵したものといわなければならない。光圀のこのことのあった後、烏山城主永井伊賀守が参詣したという。このときから遠近の老若男女の詣でるものが甚だ多くなったという。
この碑は、初め用水堀(碑南面の小川)の橋に架せられてあったという口碑があるけれども、これは俗説である。那須拾遺(著者木曽武元は当地の出生なり)には、
湯津上に石碑あり、何人の廟という事を知らず。唯笠石と申伝へける。昔は笠の石を外して常に置き、旱魃あれば、村中集り、石碑の四方へ旗を立て、笠石を冠らせ雨祷(ごい)すれば、必ず雨降るなり。然るに水戸公、元禄中、御堂御建立有りてより、笠石を常に掩ひ玉ひしより、以来雨年多くありければ、諸人笠石を常に冠らせ置き給ふ故、斯く雨降るならんと申けり。其後旱魃に昔の如く雨乞すれども、降る事なし。
とあるのは、最初より立っていたことが知れる。また笠石というところから、雨乞いの俗信を生じたのはおもしろい。
思うにこの碑は、建立の当所よりその位置を替えなかったようで、現位置は「かま場」(現在墓地となっているが、長方形に塁址とみらるものがある)と称して、昔時火葬の行なわれたところと伝える地処の西南方であって、かま場は実は国造の館址といってよいように思う。国造の館を構えたところであるから「かまへ場」を略してかま場の称が起ったのであろう。黒羽町大字北野上に同名の古跡がある。砦を構えたところなので、このいい伝えのあるのをみると、この「かま場」もまたその昔、那須国造が館を構えていたといってもよいようである。
明治四十四年八月、国宝に指定された。銘字一百五十二字、書法六朝北魏の風を帯びて、非常に古雅である。隠語の文字があって難しく、多くの儒学者が考証を試みたけれども、文意はいまだに徹底していないが、次に先人の説を斟酌して、刻字およびその大意を記そう。(句読は蓮見長氏が施したものである)
碑銘の全文(原文は行十九字詰)
永昌元年巳丑四月、飛鳥浄御原大宮、那須国造追大壱、那須直韋提、評督被賜、歳次康子年正月二壬子日、辰節弥物、故意斯麻呂等、立碑銘偲云爾、仰惟殞公、広氏尊胤、国家棟梁、一世之中重被弐照、一命之期、連見再甦、砕骨視髄、豈報前恩、是以曽子家、无有驕子、仲尼之門、无有罵者、行孝之子、不改其語、銘夏堯心、登神照乾、六月童子、意香助坤、作徒之大、合言喩字、故无翼長飛、无根更固
これに仮名を交えて改めれば
永昌元年己丑四月、飛鳥浄御原(アスカキヨミハラ)の大宮、那須国造追大壱(ツイダイイチ)、那須の直韋提(アタヘイテ)に、評(コホリ)の督(カミ)を賜わる。歳庚子(カノエネ)に次(ヤド)る年の正月二壬子の日、辰節(タツノトキ)に物(モツ)(弥は物ナルベシ)故(コ)す。意斯麻呂(イシマロ)等碑を立て偲(偲ハ徳ナルベシ)を銘すと爾云(シカイフ)。仰き惟(オモ)んみれば、殞公(インコウ)は広氏の尊胤にして、国家の棟梁たり。一世の中重ねて弐照せられ、一命の期連(シキリ)に再(サイ)甦を見る。骨を砕きて髄を視るとも、豈に前恩に報ぜむや。是を以て曽子の家には驕子あることを无(ナ)く、仲尼の門には罵る者有ること无(ナ)し。孝を行うの子は其の語を改めず。「夏に銘す堯の心を、(之より意香助坤まで隠語文)、神を澄(スマ)して照乾す。六月童子、意うに香は坤を助く」徒を作(オコ)すこと大なり。言を合せて字を喩(サト)す。故に翼无(ナ)くして長く飛び、根无(ナ)くして更に固まる。
右碑文の大意。
唐の則天武后の時の年号である永昌元年四月(我が持統天皇三年)持統天皇(飛鳥浄御原大宮)より、那須国造で、追大壱の位階を有する。那須の直(アタヘ)(上古の姓(カバネ)で、君(キミ)の次位、県主(アガタヌシ)の上位にあり)韋提(イテ)に、那須郡の大領(評督)を命ぜられた。(大化の改新により、那須国が郡に改められた)そして国造は庚子の年(文武天皇の四年)の正月二日、午前八時(辰節)に死去(物故)された。依って国造の子弟たる意斯麻呂を始めとして、其の恩顧を蒙った我々新羅の帰化人等が、墓碑を建てて、故人の徳を石に刻みつけ、不朽に伝える。
仰ぎ思い見れば、亡き人(殞公)は、豊城入彦命の後裔たる広来津(ヒロキツ)氏(広氏)の子孫で国家の重任に堪える材器を有する人であった。(国家の棟梁)我等は非常に恩顧に預り、一世の中、二度と主君の照臨を蒙り(帰化人が我が国に来て、再び国君を戴くからという)一命が蘇生(再甦)するが如き厚い御恩恵に浴した。この海よりも深く、山よりも高い御恩は骨を砕いて骨髄を現わす底の辛苦をなすとも、如何して国造生前の御恩に報いられようぞ。
実に国造の恩徳は、斯の如く大なれば、その子弟の之に事えること、さながら曽子の家に、父兄に順わぬような驕傲なものがなく、また孔子(仲尼)の一門に師友を悪口するものが無いようであった。
後に遺された国造の子弟も、論語に「三年無レ改二父之道一可レ謂レ孝矣」とある教訓に合って、能く父の志を継いて仁政を施し、我等帰化人をも、旧の如く憐んで下るに相違ない。
さて国造は、忠(銘レ夏尭心)烈(澄レ神照乾)孝(六月童子)養(意香助レ坤)を以て、よく人民を教化して、大いに民心を振い作した。この「銘レ夏尭心」からこの旬までは、隠語の文で、意味を合せて文字となるのである。(合レ言喩字)
斯く教化が行われた故、国造の名声は、管子に「無翼而飛者声也」とある通り、長く後の世に語り伝えられようし、又治下人民の故人を思慕する心情は、同書に「無根而固者情也」とある通り、長く胸底に固結して、永久に忘れられないであろう。
仰ぎ思い見れば、亡き人(殞公)は、豊城入彦命の後裔たる広来津(ヒロキツ)氏(広氏)の子孫で国家の重任に堪える材器を有する人であった。(国家の棟梁)我等は非常に恩顧に預り、一世の中、二度と主君の照臨を蒙り(帰化人が我が国に来て、再び国君を戴くからという)一命が蘇生(再甦)するが如き厚い御恩恵に浴した。この海よりも深く、山よりも高い御恩は骨を砕いて骨髄を現わす底の辛苦をなすとも、如何して国造生前の御恩に報いられようぞ。
実に国造の恩徳は、斯の如く大なれば、その子弟の之に事えること、さながら曽子の家に、父兄に順わぬような驕傲なものがなく、また孔子(仲尼)の一門に師友を悪口するものが無いようであった。
後に遺された国造の子弟も、論語に「三年無レ改二父之道一可レ謂レ孝矣」とある教訓に合って、能く父の志を継いて仁政を施し、我等帰化人をも、旧の如く憐んで下るに相違ない。
さて国造は、忠(銘レ夏尭心)烈(澄レ神照乾)孝(六月童子)養(意香助レ坤)を以て、よく人民を教化して、大いに民心を振い作した。この「銘レ夏尭心」からこの旬までは、隠語の文で、意味を合せて文字となるのである。(合レ言喩字)
斯く教化が行われた故、国造の名声は、管子に「無翼而飛者声也」とある通り、長く後の世に語り伝えられようし、又治下人民の故人を思慕する心情は、同書に「無根而固者情也」とある通り、長く胸底に固結して、永久に忘れられないであろう。
(蓮実長氏著 那須郡誌より)