四十三代元明天皇は和銅元年(七〇八)二月、都を奈良に遷そうとして計画を進め、同三年正月平城宮の大極殿で朝賀を受けられ三月に至って平城遷都となった。これより四十九代光仁天皇を経て桓武天皇の延暦三年(七八四)まで前後八代七十五年を奈良朝または奈良時代というが一般的には奈良朝七代と呼んで桓武天皇を省いている場合が多い。
四十二代文武天皇が病床に臥れたとき、皇子首(おびと)親王が幼少であったため、天智天皇の皇女で草壁太子の妃であった御生母阿閇(あべ)皇女を皇位につかれるようにすすめたが、皇女は辞して受けず、慶雲四年(七〇七)六月、文武天皇が崩じたため止むなく即位された。四十三代元明天皇がこれである。
この時代は和銅銭の鋳造、奈良遷都、隼人族の入朝、古事記や風土記の著述、国分寺、薬師寺などの建立に示される仏教の隆盛、さらに和気清麻呂と僧道鏡の出現等々大きな事件が続発している。
この時代において特に那須に関係するものを深れば、どうしたことか二人の怪僧についてのことになり、それが共に史実と伝説とを織り交ぜたものの多いことにいよいよ奇異を感ずるのである。