第二節 僧道鏡の没落

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 女帝四十八代称徳天皇は四十六代孝謙天皇の重祚された方であり、孝謙帝は聖武天皇の後を継がれ在位十年で位を淳仁天皇に譲られて太上天皇と称されたが、淳仁帝が在位七年で淡路に追われて廃帝となったために太上天皇となった孝謙帝が再び即位されたもので、在位六年、五十三才で崩御された。
 この女帝は孝謙帝時代から僧道鏡をしだいに寵愛され、やがて道鏡を太政大臣禅師に翌天平神護二年(七六六)には法王にと臣下として類例をみない最高無比の地位に昇らせて、周囲の人々を唖然とさせたころには、すでに手の施しようもないほどの関係が結ばれ、水鏡、日本紀略、古事談その他に汚れ多い醜聞が記述されて、公私混淆も甚だしい政治の堕落と腐敗を生み出したことを伝えている。
 かくて神護景雲三年(七六九)宇佐八幡の神職阿蘇麻呂が道鏡に媚びて「道鏡をして帝位につかしむれば、天下おのずから太平ならん」との神託があった由を奏上し、ここに和気清麻呂の登場となって史上深甚の危機を免かれたことは、詳細な説明を要しないであろう。
 その翌四年八月四日称徳天皇崩じ、天智天皇第六子白壁王を立てて皇太子とし(次帝の光仁天皇)先帝の山陵を、大和生駒郡平城村に営み、道鏡は陵下に庵を結んで喪に服し政治の座から離れた。
 すると坂上刈田麻呂なるものが白壁皇太子に向って、道鏡がしきりに皇位につくための奸策を行なっていることを告げたため、皇太子は直ちに命じて道鏡を下野薬師寺別当に、その弟と三子を土佐に流し、宇佐八幡の阿蘇麻呂を種子カ島に追い出して、電光石火、先帝の陵下に皇位継承のための使者の訪れを待っていた道鏡の愚劣さを白日のもとにさらし、十月、二カ月間の空白を満して白壁王が即位して光仁天皇となり、ここに妖雲は一掃され、やがて明暗混迷の奈良時代は終わることになる。
付記
 千二百年前における女帝と怪僧の恋愛物語の真偽は別として、流罪の道鏡をめぐるわが下野の伝承を述べることにするが、その女帝は孝謙天皇として取扱われている。
 史蹟「唐の御所」は、馬頭町と北向田との境の和見の岩下山古墳群の中で王座をしめる格式のもの、古くは玄室と前室から成っていたが前室はほとんど形を失い、久しい間その玄室を穴居の跡と伝えられていた。
 ところが道鏡は、この玄室内とかそれとは別に付近に石室を作ってかくれ住み、女帝がはるばるこの地を訪れて同棲し、やがてこの石室にあって歿したという。(那須記)
 また、天保年間に作られた「日光駅程見聞記」に石橋町に伝えられる孝謙天皇墓なるものについては次のように述べている。
 「これより西十七・八丁に上代料村(大領村)という処の畑の内、杉の森内に小社ありて南にうつ木の一村群生じたる処あり、孝謙天皇の陵という。願を掛るに米唐を持行きて、、うつ木の処へ呈すと云、西光寺という真言宗の寺の持なり」
 この二つの語り草は、まさに笑うべき伝説であり、孝謙帝の後身、称徳天皇の崩御は前述のように、神護景雲四年(七七〇)の八月四日であり、道鏡の下野配流は明らかにその後である。
 この年号は同年十月に宝亀と改まり、その宝亀二年四月道鏡が配所薬師寺にあって死んでいる。だから配流後の道鏡を訪れた孝謙なり称徳なりの女帝があったなら、それは幽霊か邪恋に狂うた妖鬼か夜叉の類とするほかはあるまい。
 往年の薬師寺は奈良の東大寺、筑紫の観音寺と共に三戒壇として栄えたが、中世に至って廃され、わずかに壮大をしのぼせる礎石が残されているばかりである。その境内に竜興寺があって、これに接し道鏡塚なる小丘がある。これが道鏡の墓所と伝えられている。
 河内郡田原村(現、上河内村)に道鏡に関する逆面(さかずら)伝説があり、今日逆面なる地名となっているし、日光街道沿いの篠井村石那田(現、宇都宮市)には百姓たちの日照りに困っているのを見た道鏡が神妙に雨乞いの祈りをして大雨を降らせた。同地の高尾神社にはその功徳を謝して彼の霊を合祀している。怪僧道鏡の善徳美談としてなにかほほえましい気持さえわくのである。