光仁天皇が元応元年十二月に没し、五十代桓武天皇が即位して延暦元年(七八一)と改められたが、同十三年十二月、山背国を山城国と改称し、新京を平安京と名付けた。この地は現在の京都市であり、明治二年明治天皇が東京に遷都されるまで、実に一千七十五年源頼朝が鎌倉幕府をひらいて、天下の実権を握るまで、おおよそ四百年間、天皇親政の時代が生まれた。
したがって頼朝の幕府開設までは、平安初期時代と呼ぶべきであり、桓武天皇以来のこの時代は平安の名において、平安であったかといえばさにあらず。まことは皇位継承をめぐって陰惨な暗い時代を生み出し、それが公卿政治の弱体を暴露して武力をたのむ武士の進出となったものである。
しかし一方では仏教の興隆・漢字の発達・学校の創設・中央および地方の制度改革・蝦夷の討伐・兵制の刷新などめざましい文化の華(はな)を咲かせたが、藤原氏一門の栄華と繁栄の結果が摂政、関白を私物化するに至って当然大きな変動期の訪れが芽生えずにはいなかった。
以下那須を主とする下野関係の事項として蝦夷の鎮定に赴いた諸将の動き、仏教の興隆による僧雲海、同じく円仁(慈覚大師)の活動、地方の紛乱と平将門の出現、前九年後三年の役後の武士の興起等々活発な新時代への移行にふれ、源平二氏の隆替からは鎌倉時代で取扱うつもりである。