和銅二年(七〇九)三月
「壬戌。(五日)陸奥 越後二国蝦夷。野心難フシレ訓メ。屡害ス二良民ヲ一。於テレ是ニ遣シテ使徴シ二発遠江 駿河 甲斐 信濃 上野 越前 越中等ノ国ヲ一。以二左大弁正四位下巨勢ノ朝臣麻呂ヲ一為二陸奥鎮東将軍ト一。民部ノ大輔正五位下佐伯ノ宿祢石湯ヲ為二征越後蝦夷将軍ト一。内蔵ノ頭従五位下紀ノ朝臣諸人為ヲ二副将軍ト一。出テレ自リ二両道一征伐セミム。因テ授ク二節刀并軍令ヲ一。」(続日本紀)
次で神亀元年(七二四)また反乱があり藤原宇合(うまかい)がこれを征し、下野を含む坂東九カ国の兵三万人を駐屯させて大いに武威を示した。
和銅二年秋七月
「乙卯朔。以テ二従五位上上野朝臣安麻呂ヲ一為二陸奥守ト一 令諸国ヲシテ運二送兵器出羽ノ柵ニ一。為メナリレ征二蝦狄スルガ一也ヲ。
神亀元年四月
「壬戌。(五日)陸奥 越後二国蝦夷。野心難フシレ訓メ。屡害ス二良民ヲ一。於テレ是ニ遣シテ使徴シ二発遠江 駿河 甲斐 信濃 上野 越前 越中等ノ国ヲ一。以二左大弁正四位下巨勢ノ朝臣麻呂ヲ一為二陸奥鎮東将軍ト一。民部ノ大輔正五位下佐伯ノ宿祢石湯ヲ為二征越後蝦夷将軍ト一。内蔵ノ頭従五位下紀ノ朝臣諸人為ヲ二副将軍ト一。出テレ自リ二両道一征伐セミム。因テ授ク二節刀并軍令ヲ一。」(続日本紀)
次で神亀元年(七二四)また反乱があり藤原宇合(うまかい)がこれを征し、下野を含む坂東九カ国の兵三万人を駐屯させて大いに武威を示した。
和銅二年秋七月
「乙卯朔。以テ二従五位上上野朝臣安麻呂ヲ一為二陸奥守ト一 令諸国ヲシテ運二送兵器出羽ノ柵ニ一。為メナリレ征二蝦狄スルガ一也ヲ。
(続日本紀)
神亀元年四月
「丙申(七日)以二式部郷正四位上藤原宇合ヲ一為二持節大将軍ト一 宮内大輔従五位上高橋ノ朝臣安麻呂ヲ為ス二副将軍ト一判官八人 主典八人 為ナリレ征ノ二海セシカ道蝦夷ヲ一也。癸卯(一七日)教シ下坂東九国ノ軍三万人ヲ教シテ二習ノシ騎射ヲ一試中練セ軍陳ヲ上運ブ二綵帛二百疋、絁一千疋、綿六千屯、布一万端ヲ施陸奥ノ鎮所ニ一 (続日本紀)
天平五年(七三三)十二月、出羽の柵を秋田に移して秋田城を築き、藤原麻呂が常陸、下野、上野、上総、下総、武蔵六ケ国の騎兵を率いてこれを固め、さらに東国諸国から多数の兵器を送り込んだ。
天平五年(七三三)十二月
「十二月己未(二十六日)出羽柵ヲ遷シ二置ク於秋田ノ村高清水ノ岡ニ一。又於テ二雄勝村ニ一建テレ郡ヲ居クレ民ヲ焉」 (続日本紀)
「十二月己未(二十六日)出羽柵ヲ遷シ二置ク於秋田ノ村高清水ノ岡ニ一。又於テ二雄勝村ニ一建テレ郡ヲ居クレ民ヲ焉」 (続日本紀)
宝亀五年(七七四)七月また反乱、鎮守府将軍大伴駿河麻呂が出動、坂東八カ国のうち上総、下総、常陸、安房が兵船を出し、下野、上野、相模、武蔵が兵を送って大勝している。
宝亀五年七月
「庚申(二十三日)以テ河内守従五位上紀ノ朝臣広純ヲ為ス二兼鎮守副将軍ト一。勅シテ二陸奥国按察使兼鎮守府将軍正四位下大伴ノ宿祢駿河麻呂ニ一曰ク。……云々八日
巳巳(二日)勅シテ二坂東八国ニ一曰ク。陸奥ノ国如シ有ラバレ告グルコトレ急ヲ随ヒ国ノ大小ニ一差二発シ援兵二千巳下五百巳上ヲ一且キ行且奏セシメ務テ赴クト二機要ニ一(続日本紀)
次で延暦三年(七八四)二月、大伴家持を征東将軍に、四年二月多治比宇美を副将軍に任じて彼らを征し、六年二月下野国司佐伯宿祢葛城に副将軍を兼ねさせ、七年二月には多治比宇美を鎮守府将軍に昇格させて兵を進めたが、副将軍佐伯宿祢が病死、東山、東海、坂東の歩騎兵五万二千八百人を投入し、翌八年三月征東大使紀古佐美を送ったが、多賀城に集めた糧食がにわかに乏しくなって、戦果あがらず空しく京都に帰った。
延暦六年二月および三月
「陸奥ノ按察使守正五位下多治比ノ真人宇美ヲ為ス二兼鎮守将軍ト一 外従五位下安倍ノ猨嶋ノ臣墨繩ヲシテ為ス二副将軍ト一 三月庚戌 軍粮三万五千餘斛仰二下シテ陸奥国ニ一運ビ二収メシム多賀城一。又糒(ほしい)二万三千餘斛并ニ塩仰セテ二東海、東山、北陸等国ニ一 限テ二七月以前ヲ一転二進セシム陸奥ノ国ニ一 並ニ為メナリ三来年征センガ二蝦夷ヲ一也。辛亥下シテレ勅ヲ調二発シ東海 東山 坂東諸国ノ歩騎五万二千八百餘人ヲ一限来年三月一会セシム二於陸奥国多賀城ニ一 以下時ヘ
「陸奥ノ按察使守正五位下多治比ノ真人宇美ヲ為ス二兼鎮守将軍ト一 外従五位下安倍ノ猨嶋ノ臣墨繩ヲシテ為ス二副将軍ト一 三月庚戌 軍粮三万五千餘斛仰二下シテ陸奥国ニ一運ビ二収メシム多賀城一。又糒(ほしい)二万三千餘斛并ニ塩仰セテ二東海、東山、北陸等国ニ一 限テ二七月以前ヲ一転二進セシム陸奥ノ国ニ一 並ニ為メナリ三来年征センガ二蝦夷ヲ一也。辛亥下シテレ勅ヲ調二発シ東海 東山 坂東諸国ノ歩騎五万二千八百餘人ヲ一限来年三月一会セシム二於陸奥国多賀城ニ一 以下時ヘ
(続日本紀)
光仁天皇は陸奥の形勢を憂慮せられ、巨勢野足(後に戦功により下野国司となる)を副将軍とし、坂上田村麻呂が東海、東山にあって軍兵と食糧の徴発に当たり、翌十一年には田村麻呂、野足、下野国司百済俊哲ら副将となって戦い勝って凱旋した。
その後は坂上田村麻呂が鎮守府将軍、征夷大将軍などに任ぜられて大いに活躍し、二十年十一月には胆沢城を築いたが、そのときの勅に、
「官軍、薄伐して地を開くこと昿遠なり、宣しく駿河、甲斐、武蔵、上総、常陸、信濃、上野、下野等の国々の浪人四千人を発して胆沢城に配すべし」
とある。大和朝廷の蝦夷地経営について、いかに関心が深かったかが知られる。
延暦二十二年(八〇三)二月、田村麻呂は陸中に志波城を構え、翌年征夷大将軍に再任されて、下野・武蔵など坂東六国に命じ兵米を陸前の中山に運ばせるなど臨戦体制を整えながら恒久の対策を講じている。
五十二代嵯峨天皇の弘仁二年(八一一)二月、按察使文屋綿麻呂が二万六千の兵に俘囚と呼ばれた蝦夷の捕虜三万余人を加えて乱徒を征するという大掛りの戦いをやり、五十四代仁明天皇の承和十五年(八四八)二月には坂東地区に移した俘囚のうち上総に住まわせた彼らが反乱を起している。
かくて五十七代陽成天皇の元慶二年(八七八)出羽俘囚が秋田城を焼くなどのさわぎがあり、小野春風、藤原保則らの遠征によってようやく平定に成功し、さらに渡島(わたりじま)と呼ばれた今の北海道にまで進出するようになって、日本武尊の征討以来約八百年にわたる蝦夷征討のことはようやく終結し、中央の皇威はようやく東北の地にもおよび蝦夷国合併の完成を告げたわけである。このようにして蝦夷追討のための大軍の一部は多く下野の地を通過しており、したがって前進基地としての下野および蝦夷地防衛のための下野、あるいは糧食補給の基地として下野の地が如何に重大であったかを知ることができ、その最先端の那須の地の重要さをも知ることができるのである。
往時のこれらの歴史的背景を基盤として梅曽の官衙跡等を考えるとき、はじめてその意義がわかるような気がするのである。