第二節 坂上田村麻呂とその遺跡

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 坂上田村麻呂将軍は蝦夷征討の途次、しばしばわが下野の地を通過した関係から、その遺跡と伝えられるものが多く、下野開発史上の大きな恩人の一人といえる。
 「水鏡」のなかに彼の風貌を述べて曰く、
「さて程なく五月二十三日(弘仁二年)(八一一)田村麻呂失せにき。年五十四なりし。容(かたち)有様ゆゆしかりし人なり。丈五尺八寸、胸の厚さ一尺二寸、目は鷹の目の如く、鬚、黄金の糸筋をかけたるが如し。身を重くするときは二百一斤、軽くする折りは六十四斤心に任せて折りに従いしなり。怒れる折りは眼をめぐらせば、けだもの皆仆(たお)れ、笑う時はかたちなつかしく、稚き子も同(お)じ恐れず抱かれき。ただ人とも見え待らざりしなり。」

とまさに不出世の大豪であったことが察せられるのである。
 下都賀郡瑞穂野(現、大平町)真弓の諏訪神社は田村麻呂将軍戦勝祈念のところ、また、同郡赤麻村(現、藤岡町)には「三本松」と称した老松があり、将軍が遠征の帰途手植えしたものと伝えられたが天慶の乱に将門によって焼かれたという。
 塩谷郡矢板市の木幡神社も、将軍が山城国宇治の木幡神社の霊を移したものだという。
 このように下野各地に将軍ゆかりの場所が少なくないが、ここには主として那須郡下の関係地を探ることにする。那須山にこもって悪虐を働いた高麻呂なる賊徒を討ったのが将軍であり、将軍は高麻呂征討の途次旧野崎村豊田の将軍塚(現、矢板市豊田)に宿営したところであると語り伝えられている。(写真6)

写真6 箒川を前にして坂上田村麻呂が宿営したと伝えられる将軍塚(中央)

 将軍がはたしてこの地に宿営したかどうかについては、歴史的にもいろいろ疑問もあるが、矢板市の木幡神社が田村麻呂の勧請したお宮であるとのいい伝えや、この地の近くに「ニママ」「ヤビツ」等の地名等が残っており、この「ニママ」「ヤビツ」等は宿営の名残りであるとのいい伝えなどから考え合わせると、将軍自身がこの地に宿営したかどうかは別として、将軍の部将の一人位はこの地をとおり「吾は田村麻呂将軍である。」などと名乗ったことも考えられない訳ではない。それはこの地が江戸時代奥州街道の開通される以前から奥州への交通の要地であり、奥州街道が開通されてから後も、奥州荷物街道として大田原市平沢から矢板市鷲宿へ抜ける大事な地点であったからである。
 大田原市南金丸の「那須神社」は初め天照大神、日本武尊、春日大神を祀ったが、延暦年間将軍が遠征の途次この社に参拝し、境内の小丘に祠(ほこら)のあるのをみて、日頃信仰する応神天皇の御霊を祀って戦勝を祈ったことから祭神を応仁天皇にかえたともいわれている。
 東鑑に関明神とあるのは、那須町簑沢の追分にある通称境の明神と呼ばれる「住吉玉津島神社」であり、今は衰退して小祠となっているが、創立は延暦十年(七九一)将軍が東征の帰途、戦勝を記念して建てたものと伝えられる。
 また、那須町漆塚の熊野神社は延暦十六年(七九七)将軍が東征のとき、その部下の兵士が病のために落伍し、この地に来て住み小社を建て賊徒平定の祈願をこめたところだという。
 桓武天皇の時代、蝦夷の酋長悪路王が駿河方面に乱入したことを知った天皇は、将軍に命じてこれを追討させたが、将軍は烏山町落合の地に陣して後、凶賊を討滅した。五十一代平城天皇のとき、高僧徳一がこの地にあって田村麻呂将軍の神祗に祈ったところと知り、虚空菩薩像を刻んで祠に納めた。これが同地の星宮神社の起りだという。
 烏山町の五峰山泉渓寺は将軍が当時寿亀山と呼ばれた現在の烏山に宿り、夢に千手観音を拝したことから、東征の帰路その観音像を作らせて寿亀山に一堂を建てたが、いつしかこれを田村堂というようになった。後世これを尊敬した那須資房が五峰山に一寺を創建して田村寺と名づけ、観音をここに移した。
 また、隣村境村宮原の八幡神社(八幡宮)は将軍がこの地にさしかかった折数千の鳥の群が神符をくわえた一羽の鳥を護って飛んでいるのを見、その行方を眺めていると、筑波山(烏山城を築いた所)に降下したことを知り、その奇端にうたれて、この所に宇佐八幡宮を建てたが、大同年間に至って、境村宮原の現在の地に遷座したと伝えられる。
 なお、田村麻呂将軍の東夷征討の前後にあって下野の山岳地帯に、しばしば山賊が現われて良民を苦しめたことがあり、前述したように将軍が那須山にこもった高麻呂や烏山付近で追討した悪路王らは、みな蝦夷人ではないかと思われるふしが多いのである。
 さらに延喜年間、那須連山の大倉山に住した蔵安、蔵宗の兄弟の賊が藤原利仁将軍によって討たれているが、これも彼らか。また利仁によって征伐された高館山(宇都宮市民健康ハイキングコースと命名された日光街道ぞいの旧篠井村連峰にある)の凶賊も彼らの一味と思われ、高館山の頂上には彼らの住家であったという「鬼の岩屋」と呼ばれる巨石群の一部が露出している。
 また、長治二年(一一〇五)八溝山に笹蟹(虫のくもをいう)の化身といわれた鬼神岩岳丸なるものがこもって那須の山野を荒しまわったのも、蝦夷と思われこれは那須家の始祖須藤権守貞信によって討たれたが、これが那須家が那須地方一帯にかけて勢力を持つ基を開いたものといえる。