平将門略系(将門記)
将門の系図については定説がなく尊卑分脈を初め異説を唱えるものが多く彼が新皇を称したころ「吾れまた天皇の裔なり。八州より初めて王城に及ばん」と豪語を吐いたことは、自分も皇族の流れをくむものであり、覇者は常に天下に君臨すべきであるとの妄断によるものであると考えられる。
上総介平高望の第三子に相馬小次郎なる腕白少年があった。これが後年の将門である。若い頃、京都に送られて摂政藤原忠平に仕えやや長ずるにおよんで検非違使になろうとしたが忠平に拒否されたため怒って関東に帰り、下総豊田郡に住して不満のまま乱暴を働らき親族の仲間はずれにされた。
やがて叔父たちが彼の将来をあやぶみ、父良持の没後、彼に遺された多くの財産をわけ取ったことを怒り、叔父の国香を殺し、さらに国香の仲間源護(みなもとまもる)の子三人も殺したため、叔父良茂と良兼とは国香の子貞盛と謀り将軍を討とうとしたが、百余人の将門勢のために数千人の良茂勢がさんざんに敗れたため、戦に対する将門の自身が火のように燃えた。
将門反乱のことを知った朝廷は、彼を呼びつけて罰し、閉門一年におよんだが、許されて帰国すると叔父良兼と戦ってこれに勝ち、上洛しょうとした従兄の貞盛を信濃におそって撃破した。
常陸の住人藤原玄明が国司に叛いてその身が危うくなり、将門に救援を求めると、兵を率いて常陸に乱入し国府を焼き、役人を殺し国司を捕えて帰るという勢いを示し、武蔵権守興世王にあおられて新皇たろうとする志を固めた。
かくて天慶二年(九三九)十二月、大軍をもって下野に乱入し、国府を焼き官民を殺害すること無数、空前の悪鬼ぶりを発揮し将門記に「国内の吏民眉をひそめて涕涙し、堺外の子女は声を挙げて哀憐す。」と記している。
この国府壊滅のことは下野各地を動揺させ乱賊退散を祈願する各社寺をめぐって人々は生きた心地もなかった。足利郡坂西町小俣の鶏足寺で行なわれた法要祈願のことなどは誰もが知るところである。
こうして下野を攻略した彼は、同月十五日上野に進み下野同様の悪鬼ぶりを示して帰国、書を摂政忠平に送って了解を求めているがこれには新皇と明記している。
このように彼の両毛地区への乱入は、いずれも南部に限られたようであり、下都賀郡藤岡町は当時花岡郷と呼ばれたが、将門はこの地に花岡城を築き、下野国下館郷花岡村と呼称していたよしである。おそらく北関東征服の基地をここに策したものと思われる。
わが唐沢山城主(佐野城主)藤原秀郷と平貞盛によって、さすがの将門が討伐された戦の模様については省くことにし、秀郷が下野陸奥の精兵一万九千人をもって、勝利を納めたことからも那須の強者たちが、この決戦に参加したことは疑いないように思う。これは天慶三年(九四〇)のことであり、かつては隆盛を極めた将門の繁栄も槿花一朝の夢と消えて一族郎党ことごとく白骨の山と化し去ったのである。
六十一代朱雀天皇は、この勝報を受けて高く武勲を賞し、秀郷には従四位下を賜り、下野武蔵両国の守に任じ、貞盛は従五位下に叙され右馬介に任せられて、共に将門の父祖たち数人によって占められていた鎮守府将軍の栄誉を奪って二人に贈られた。