第五節 宇都宮氏の出現

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 前九年の役に大将源頼義の遠征軍にしたがって近江の国石山寺の僧宗円が戦勝祈念の重責を担って同行したことについては、先にもふれておいたが、いよいよ蝦夷地を前にして氏家の鬼怒川にのぞむ断崖の丘に祭壇を設けて遠征軍と別れてから、ひたすらその戦勝を祈ること実に数年におよび、この間、宇都宮の旧城山村多気山などに祭壇を移してその凱旋の日を待った。
 かくて討伐が終わって帰ってきた頼義から「何分の沙汰があるまで、しばらくこの地に留まっているように。」と申しわたされ、長年にわたる祈願成就の労苦と功績とを感謝されてまた遠征軍と別れた。
 しばらくして都から勅使が訪れ、宗円の勲功に対し下野守護職に任ずる旨が伝えられた。よって宗円は名を兼綱と改め宇都宮に築城して(今の御本丸と呼ばれる宇都宮旧城址)宇都宮第一代の城主となった。
 この城地はむかし高田の邑といわれたところで、古くはこの地の氏神である宇都宮二荒山神社の祭神豊城入彦命が館を構えられた由緒の地であり、その後かの平将門平定の大功により鎮守府将軍を拝命した藤原秀郷を第一代として五代にわたり同将軍に任ぜられたとき、唐沢山の山城が地の利を得ないために出城としてこのところに築城、その後は紀氏(益子氏)が三代にわたり下野権守としてここに住み、三代正隆のとき、新たに兼綱(宗円)が下野守護職に任ぜられたため、この地を去って芳賀郡益子に移り益子氏の祖となった。

宗円系図――藤原氏

 宗円(兼綱)が宇都宮第一代城主となってから二十二代国綱が事情あって豊臣秀吉により没落の悲運を招くまで五百五十年、関東の名城として重きをなし、多くの高名な城主を生み出したが、この間、下野全域の中心勢力として権勢を振るい、源氏関係と藤原氏関係また結婚政策の上から下野の各城主の多くは同族の立場で結ばれ、小山、結城、那須、益子、真岡、氏家、塩谷、上三川、武茂、多功、佐野、足利等々下野の豪族はほとんど宇都宮の指揮下にあった時代は少なくない。
 この宇都宮氏が常に源氏に属したこと、多くの歌人城主が出て、いわゆる文武両道の人物が少なくなかったことについてふれておく。
 宗円の父兼房の母は源扶義の女であり、源頼光(大江山鬼退治で知られた)の弟頼信はもと兼房の祖父道兼(関白、右大臣)の家人として仕えた関係から頼信の子頼義の奥州征討のとき、兼房の子宗円を敵国調伏のために伴ったものであり、由来宇都宮氏が源氏への志の深かった原因をなした。
 また兼房は歌人として知られ、源頼光の女相模を愛して相当艶聞を流したらしい。
    常よりも世の中はかなく聞えける頃、相模かもとへつかはしける。
   あはれとも誰かは我を思ひけんある世にたれもとふ人もなし
(千載集雑)

 「明石浦人麻呂祠堂碑銘」は明石城主松平日向守源信之が寛文四年(一六六四)十月に建立したもので、碑文は漢文体、林春村の撰文であるが、その内容は大要次のようである。
「藤原兼房は和歌を好み、夢に柿本人麻呂に遇うたが、その服装は鳥帽子直衣紅袴を着し、左の手に紙を持ち右の手に筆を握り梅花のもとに立つ。年は六十余であろう。夢さめて画工を招きその肖像を描かせ、これを珍蔵していたが、やがて死期を知ってこれを白河上皇に献じた。上皇は喜ばれて鳥羽の宝庫の中に納められた。」

というものである。
 宗円が戦勝祈願を行ったときの本尊仏は天暦三年(九四九)三月、源頼光が多田満仲の子円覚上人に請うて作らせた不動尊であり、上人は紀州熊野の那智滝のほとりにこもり、山中の霊木を求めて完成したもので、大江山の鬼退治のさい頼光は満仲と謀って、この不動尊に対し賊徒平定の祈願をこめ、その功徳によって平定に成功したために、これを源氏の守り本尊として比叡山の鬼立滝に安置した。
 頼義の奥州遠征にあたり宗円が、この尊像を東国に運んだことは、以上述べたことからも考えられるのである。
 なお、この尊像は勝山に近い氏家の光明寺に安置されたが、長治二年(一一〇五)二月の火災によって寺が焼失したとき、尊像は難をまぬかれ、その後宇都宮郊外の多気山中腹不動寺持法院内の無動閣の本尊仏となっている。