第七節 伝説八溝山の大蛇退治(那須家以前)

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 昔、那須国造は、八溝山の八狭大蛇(やさかのおろち)が郷民に被害をあたえることが多かったため、これを退治しなければならなかった。
 大蛇とは一体何んであろうか。
 その大蛇を退治するためには、天津速駒(あまつはやこま)という神馬に乗って戦わねば勝てないのだが、その神馬は、信州駒ケ岳に住んでいる。また、馬の鞍も天安鞍(あまのやすくら)という神の鞍でなければならず、これもまた乗鞍岳にあるという。
 槍もまた、槍ケ岳にある天日矛(あめのひぼこ)でなければならず、立山からは、天広楯(あめのひろたて)を借りてこなければならないというので、信濃の国に旅して、この山脈にわけ入り、天津速駒をさがし歩いた。この速駒は、昔、武甕槌尊(たけみかずちのみこと)がなくなられたときに、その魂が抜け出して、馬となったという神馬である。非常に勇敢な白毛の神馬で、双方の肩には、銀色の羽が生え、自由に空中を飛びまわることができるという、陸と空との、自在のはたらきを持つ神馬であった。
 ようよう天津速駒をさがし求めた那須国造は、必勝の速駒を得たので、次々と山の嶺嶺を越え、乗鞍岳からは、天安鞍を借り受け、槍ケ岳からは、天日矛を、立山からは、天広楯を借り受けて帰り、八溝山中にわけ入り、毒もつさ霧のなかに、みごと八狭大蛇を退治した。
 これは、日本伝説叢書信濃の巻に書いてある八溝山の大蛇退治の概略であるが、那須の起りと、那須家の関係などをみる重要な資料となるのではなかろうか。
 一体に日本の伝説のなかには、また豪族の勃興のなかには、きまってといってよい程、大蛇退治や、山族退治の話がつきまとうのであるが、大蛇とは一体何んであろう。
 蛇尾川の蛇、薄葉の大塚の横をとおる蛇場道の蛇、滝沢の不動尊にまつわる白蛇の話、その他各地に残る蛇の説話、これらは今後の課題として疑問を残しておくにとどめる。