第八節 八溝山の岩岳丸討伐

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 那須記には、八溝山の鬼神退治の話が、開巻第一に書かれている。
崇徳院(一一二三~一一四一)の御宇、首藤権守貞信と申して武威諸国にふるい、其の頃、下野・常陸・奥州三国にまたがりたる八溝山に、岩嶽丸という鬼神住みて、人民をとり喰い六畜をつかみさく。よって宇都宮座主宗円方より、早馬をもって奏聞申しけるは、「八溝山に化生住みて、民を悩まし候なり。彼を退治あって民の愁を救え給え。」と、奏聞仕りければ、帝おどろかせたまい、「誰か討手に遣すべき。」と、宣旨ありければ、公卿詮議ありけるに、藤権守進み出でて申しけるは、「身不肖には候えども、某に仰せつけられ候え。」と、謹んで申し上げ、帝叡感ましまして、其の儀ならば急ぎ罷り下れとの宣旨あり。貞信畏みて御請を申し、早速相模国に下りて軍勢を催しけり。
 嫡子相模守郎従には、伊豆の源八義綱、高梨次郎隆法、大内田四郎吉任、後藤次郎忠義、荏原三郎隆義是等を初めとして、都合其の勢二百余騎、天治二年(一一二五)十二月二日に、相模国を打ち出でて下野国に到着し、八溝山のふもとをとりまき、陣をとり勢子を集め給いけるに、集る者には須佐木、須賀川蛇穴、磯上のものども五百人ばかりなり。其の中にて、蛇穴地の次郎、大槲大蔵をえらび出して、案内者として八溝の岳に登り、四方をとりまわし、谷峰尋ねけれども化生のもの見えざりけり。貞信あきれてまします所に、老翁一人あらわれ出で、仰せけるは、「何と汝に尋ぬるとも、化生を得ることあるべからず。この山の北方山腹に笹岳という所あり。山嶮しく岩石そば立ち、鳥けだもの通いがたく、常に黒雲覆いて其の中より光出づるなり。ここぞ岩嶽丸という化生が住む所なり。是へ行きて打つべし。我氏子をとられ無念に思うなり。」と宣いて、蟇目鏑をたまわり、「なおなお行末守らん。我は大巳貴神なり。」と消えて失せ給う。
 貞信御跡三度伏し拝み、鏑矢とつて押しいただき、化生射ること必定なりと悦び、大勢にては叶うまじと、三十余人召しつれ幽谷にくだり、苔岩を伝いて登りしに、ここぞ笹岳と覚しき所に近づきて見給えば、教えの如く黒雲めぐりて岩穴のわかちも見えぬ所なり。
 貞信虚空に向って手を合わせ、「南無山王大権現、鬼神のかたちを見せてたび給へ。」と、祈りければ、忽ち黒雲消えて岩穴の中より悪鬼あらわれ出で、其の形、口は耳の根までさけ、舌を振る事紅の炎に似たり。吹く息も火焔の如く、十の手足あって、盤石を投げ出すこと風に木の葉の飛ぶ如し。
 貞信見給いて鏑矢打ちつがいひょうと放ちければ、此の矢あやまたず悪鬼の頭骨にひつしと中りければ、鬼神怒って貞信めがけて飛んでかかるを、嫡子相模守はせ寄って、ちょうときる。後藤かけ寄り化生をおさえ、すきまなく三刀さし通す。鬼神弱りたる所に、皆皆寄りてよくよく見れば、数千年を経たる蟹の化生と覚え、身の丈六尺余りにして、頭は牛の頭に似て髪色眉毛は白馬のごとく、其の間より二つの角尖に生えて長さ二尺余、両眼は一尺ばかりぬけ出で、金のまりに朱をさしたるが如くなり。十の足は、各四尺七寸あつて鉄のいかりに似たり。前足二つは蟹足に似て刃を打ち違いたるごとく、毛羽茂り熊の如し。資通首をきりければ、其の頭天へ飛び上り光を放って西をさして飛び行くと見えしが、案内致したる大槲大蔵が背どの古木にとどまりしを、貞信追いかけ打落し、其の首を框に入れ、持たせて都にのぼり給いけり。帝、叡覧ましまして、此の度の忠賞に下野国那須の守護をたまわるとの宣旨なり。
 貞信ありがたしと御前をまかりたち、下野那須に下着あり、彼所に住し、那須藤権守貞信と号しける。後に那の字を略して須藤と名乗り給いけり。偏に神明の加護力なりと、彼の山に山王権現と大巳貴命の社を建立ありけり。
 其の後大槲大蔵背どに落ちし霊魂化して大蛇となり、人民を悩まし、夜は光り物とぶ事おびただし。里人おどろき山王権現のお湯を奉りければ、忝くも神霊乙女に托して曰く。「我山の岩嶽丸の霊魂毒蛇となりて氏子をとらんとす。我は大猿と現れて、彼と夜な夜なたたかうなり。やがて毒蛇を討って氏子を救うべきなり。彼の霊魂を社を建て祭るべし。」と宣いて、神は上らせ給いけり。
 里人急ぎ国司に訴えければ、貞信卿きこしめして、ありがたき御神託と思召し、大槲において社を建て祭地を寄付仕って、其の上神主を置き、これを八竜と崇めたまいけり。

 以上が那須記の「藤権守貞信始めて那須を領する事」の一部であり、真偽の程は別として那須氏が那須の地を領しこの地に居城を構えるまでのいきさつを那須記によって進めてみたのである。