那須の守護を命ぜられた那須藤権守貞信は、まず第一に、那須郡小川町三輪の地を選んで築城し、神田城と命名した。これは、さきに讃岐国の神田の地を領していたので、故郷の地を慕いその名を移したものといわれている。(現香川県緩歌郡神農谷村)
この神田城は、「那須記」によると、実に、豪壮のもののようで、
「今の神田の城と申すは広広として、東は中川という大河ありて常陸源氏昌義の勢を防ぐためなり。中川につづいて民家並み居、寸のあき地もなかりけり。町の名を下宿と号し、城と町との間に百余間のぬけ穴あり。通い路のため、横五間の広路をつくり、城の鬼門に寺を建て、三善朝臣清行が第八男、出家となられ浄蔵貴所と号しけるが下って住し、依って浄蔵寺と号して十一面観音を安置して、……………下略。
南はひらたくしたる地なるに、数千の武士いらかをならべ屋形をつくり、築地をきづきまわし、小路の数七条、横小路八条なり。
西は山なり。山頂に出城を構え、物見の櫓を作り、敵寄る時は鐘をつかせんためなり。山下に士家並み居、城と士家との間に五十余間の深地あり。城の四方に横五間の堀をほらせ、北は箒川をさかいとし、民屋数千軒あり。北にあたって小路十条、横十一条、箒川の岸辺に仏閣堂宇あり。高野山常法寺という。大日如来を中尊として、阿弥陀、薬師等を安置す。堂の数十六宇ありて側に寺あり。阿弥陀院、薬師院、金剛院、蓮華院、大楽院、来光院、釈迦院、弥勒院、安養院、普賢院等を初めとして四十九院をば建立あり、紀州高野山を慕いて、高野山常法寺と号す……。」
南はひらたくしたる地なるに、数千の武士いらかをならべ屋形をつくり、築地をきづきまわし、小路の数七条、横小路八条なり。
西は山なり。山頂に出城を構え、物見の櫓を作り、敵寄る時は鐘をつかせんためなり。山下に士家並み居、城と士家との間に五十余間の深地あり。城の四方に横五間の堀をほらせ、北は箒川をさかいとし、民屋数千軒あり。北にあたって小路十条、横十一条、箒川の岸辺に仏閣堂宇あり。高野山常法寺という。大日如来を中尊として、阿弥陀、薬師等を安置す。堂の数十六宇ありて側に寺あり。阿弥陀院、薬師院、金剛院、蓮華院、大楽院、来光院、釈迦院、弥勒院、安養院、普賢院等を初めとして四十九院をば建立あり、紀州高野山を慕いて、高野山常法寺と号す……。」
幾分の誇張は差引いても当時の豪族の居城地としては、稀にみる豪壮のものであり、大田原周辺にいた小豪族はその支配下にあったであろうこともうなづけるのである。
那須家系図(宝暦九年、那須資直撰)
貞信の条に、(資房、資家とも云う)
「按山内首藤亦祖資通見東鑑、又宗資為山内子則為同族矣 又按以斉藤 進藤 佐藤 例考則於山内氏蓋有任主馬首者而称首藤者也
以上のように首藤氏(須藤)は当時主馬首(しゅめのかみ)に任ぜられていたので、首藤と称したのが、須藤になったのではないかといっている。
那須氏の先祖を正確につかむことは容易でないが、藤権守貞信(資房、資家)がその始祖であろうということは、大体において一致した見解(一般的に)のようである。
貞信から六代、すなわち、貞信―資通―資満―資清―資房―宗資―資隆(余一宗隆の父)まで貞信が三輪城を築いてから二十年後となる。
二十年が六代の年代とは合点の行かない点もあり、その辺の消息については判然としないが、資通は貞信の実子ではなく、相模国山内首藤義通の嫡子が、貞信の養子になって那須家を継いでいるようであるし、資満、資清は共に平治の合戦において戦死をしている模様であり、宗資には子供がなく山内首藤家からきて那須家を継ぎ、資房と資隆は兄弟であるようにも受け取れるので二十年六代も考えられるのではないかとも思う。この辺の事情をもう少し詳細に眺めてみたいと思う。
資通は、相模国の首藤義通の嫡子であり、貞信の養子となって那須氏を継ぐ。山内家の一族は、相模と那須とにわかれたようであり、資通は十三才の若年で、八幡太郎義家の後三年の役に従って、奥州に従軍、大将の命を受け、陣営の建物を薪にして寒苦を救った。と一系図には出ている。また、別系には、「貞信の子を資通という。」とある。資通には子がなく、相模国の住人で首藤刑部義通の長子資満を養って後継ぎとした。とある。
首藤氏は元来源氏の郎党であり、平治の乱において義通は、次子俊通とともにその部下に属し、那須資満も、その子資清とともに戦に赴いたが、資満は弟俊満が、三条河原において敵の手にかかったことをくやしがり、子供の資清と共に奮戦したのであるが、遂に戦に破れ親子もろとも討死してしまった。
資清に二人の子供があり、長男を宗資といい、次男を資房といった。この二人は、のがれて信濃国稲積の庄にかくれていたが、後に清盛に許され、那須に帰って旧領に復した。とある。
この間二十年にも満たないのに、六代もかわっていることに、不思議を感ずるのであるが、保元、平治の乱に召集され、次々に戦場の露と消え失せたのではなかろうかとも考えられる。また、須藤太郎資通は、那須系図によれば、下野三輪庄の神田城に居住したことになっているが、実際には、相模国山内首藤義通の嫡子で、貞信が迎えて養子にしたが、平治元年(一一五九)平治の乱に応召して、戦いに参加等、いろいろな事情が介在し、或は、この間名目だけで、実際に那須の地に居なかった者もあるのではないかとも思う。
資清の子、資房、宗資の兄弟は、清盛の許を得て那須の地に帰り、長男宗資は神田城に、弟資宗は熊田庄下境に、稲積城を築いて居住した。その後、兄宗資には子供がなかったので、弟資房を稲積城から神田城に移し那須家を継がせた。後資房は下野武者所に任ぜられて、那須の地を領した。
以上が那須家系図(宝暦九年(一七五八)那須資直撰)にある概略であるが、一説には宗資と資房とは同一人ではなかろうか、と説くものもある。
とにかく資房が神田城に移り住んだため、稲積城は次第にさびれ、後代になって、沢村五郎資重(矢板市沢に居住したが、兄越後守資之と争い、稲積に移る)が、再び修理して居城としたようである。
次に資隆が後継者となるのであるが、
那須家系図、には
資隆
那須太郎、娶小山氏女 十二子
家伝曰、初須藤三郎、資房之弟也 云云。
とあり、一書には山内首藤三郎であるともみえるので、資房、宗資、資隆の三人は兄弟で、次々と順養子になったのではないかとも考えられる。
資隆についても異説がある。那須家の始祖は、相模国鎌倉郡山内郷に居住し、首藤資清から出たものである。との説である。
山内系図によれば、藤原道長の孫道家が「相州山内をひらく。」とあり、「その子資清にいたって始めて首藤を称す。」とあることである。道長の子が長家であり、那須系図の貞信は、道家の次男の資房ではなかろうか。
との考である。
資房は、始め、芳賀郡須藤村付近に分知され、貞信は一系に資家、資房ともいう。とあるところからみると、この資房が須藤権守であり、兄資清が主馬首(しゅめのかみ)で美濃国席田郡守部氏の婿養子となったが、後に源頼義の軍に属して、首藤と称したのがその始めのようである。
資房には子供がなく、資清と守部氏の女との間に生まれた嫡子の資通に後を継がせたが、資通にも子供がなく、本家の山内首藤刑部義通の嫡子、資満が後継者となる。資満の次が問題であるが、山内氏の義道(義通)の三男義寛が、小野寺氏を継いだので、平治の乱で戦死した兄達のあとをついだのが資隆であり、これもまた山内首藤であるから、首藤を名乗ったもののようである。
したがって資隆が義通の三男であるか、四男であるかは別として、小山家の女と結婚して十一子をあげ、後宇都宮氏の女を妻とし、御房子(房子とは部屋住のことなり。とある。)を生んだもののようである。
嘉承元丙戌年(一一〇六)七月源義家死す。(六八)
保元元丙子年七月(一一五六)保元の乱起る。
平治元己卯年(一一五九)十二月 平治の乱起る。
一時頼義、義家等によって勇名を馳せた源氏も、保元、平治の二度の戦において壊滅的な打撃をうけ、世は全く平家のものとなり、これとともに山内首藤一族(那須家、小野寺家を含む)も、あるいはのがれ、あるいはかくれ、永万元年(一一六五)清盛に許されて那須の地に帰るまで、信濃および甲斐の山中にかくれ住んだのではないかと思う。