第一節 那須氏ようやく勢を増す

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 治承四年(一一八〇)八月、源頼朝が伊豆に兵を挙げ、弟の義経は兄頼朝をたすけて参戦するために、奥州の藤原秀衡の館を出発し、ひそかに鎌倉に上ろうとして、この那須野の道をとおる道すがら、白旗城で義兵を募った。たまたま資隆は十郎の為隆と十一郎の余一宗隆とを引きつれて義経に申しあげるには、「我が二子を、下として戦に臨ましめ給へ。」と懇請し義経の一兵士として戦に加わらせた。
 当時の那須氏は資隆の代であり、那須資房は子供がなかったため、弟の資隆を相模国から呼んで後継とした。
 資隆は下境に稲積城を築いたり、三輪の庄に神田城を築城したり(神田城については異説が多く、貞信の築城であろうとの説をなすものが多い。)続いて高館城を築いたのも、この頃であろうといわれている。
 「仁安元年(一一六六)那須宗隆高館城に生る。」とあり『別本には嘉応元年(一一六九)』とある。
 資隆はもち論平家に属し、小山城主小山政光の女をめとり十一人の男児を生み、後宇都宮朝綱の女を妻として御房子を生んでいる。
 文治二年(一一八六)十月十四日六十四才をもつて没するまで、この地の大豪族として武威を誇ったものと考えられる。
 長男は太郎光隆   次男は次郎泰隆
 三男は三郎幹隆   四男は四郎久隆
 五男は五郎之隆   六男は六郎実隆
 七男は七郎満隆   八男は八郎義隆
 九男は九郎朝隆   十男は十郎為隆
 十一男は余一宗隆  十二男は御房子(頼資)
 世はあげて平家の天下であり、那須家においても、太郎光隆以下九人の兄弟は皆平家に従って出陣し、すでに軍中にあった。二人の弟が平家に加わらず残っており、後になって源氏に参加したということは、まだ若年であったためと考えられるのである。
 こうして那須氏の起った頃、小山氏は南部に、宇都宮氏が中部にとそれぞれ勢力を張って、下野の三羽烏といった状態であったが、各そのところを得て、那須、宇都宮、小山の間には別に勢力争いもなく、したがって相反目するということもなく、至極おだやかで互いに婚姻が行なわれるほどであった。
 小山氏は俵藤太秀郷から出たものといわれているが、政光にいたってますます勢を得て小山家の祖となり、小山姓を名乗った。その妻は源頼朝の乳母であった寒川尼であり、保元平治の頃には既に小山の地に居住していたようである。政光の男の子朝政、宗政、朝光が頼朝から非常に愛されていたが、乳母の寒川尼との関係から考えれば当然のことであろうし、那須家もまた源氏に味方すべきが本筋のようにも考えられるが、資隆の兄資房が平清盛に許された恩誼もあり、「平家に非ざるものは人にあらず。」と誇った平家全勢の時代であったことを思えば、資隆が平家に味方して九人の兄弟を参戦させたことも当然であったようにも思うのである。
 寿永四年二月(一一八五)屋島の戦に大勝を得、今年三月壇の浦の戦に壊滅的な打撃を与えて平家を滅した頼朝は、威風堂々鎌倉に引きあげて恩賞のことがあった。
 寿永四年二月二十日、屋島の一戦に扇の的を射切ってほまれをあげ、その戦功によって那須の総領となった余一宗隆は更に、
 丹波の五賀庄(京都市船井郡五ケ庄村)
 若狭の東宮河原庄(福井県遠敷郡宮川村)
 武蔵の太田庄(埼玉県北埼玉郡大田村本田)
 信濃の角豆庄(長野県東築摩郡笹賀村小俣)
 備中の絵原庄(岡山県西井原市井原町)
 の五カ所の荘園を賜わり、下野武者所を命ぜられた。(那須記)
 これよりさき平家にくみした兄達九人は、(源氏には参加したが屋島の戦で扇の的を射ることを辞退した十郎為隆も、)頼朝からのとがめを受けて源氏の怨敵(おんてき)となってしまったので、どこにかくれ忍んでも、さがし出されて討たれるのは必定である。血を分けた親子兄弟としては、それもしのびがたく、為隆と宗隆との二人はひそかに相談して、遂に家臣の角田源内を屋島に遣わし、光隆以下九人の兄達に面会させて「一日も早く屋島を落ちのび、源氏に降参してその軍に加わるか、那須の本国に子供達の安否を思い、毎日悩み続ける父資隆のもとに忍び帰って、父とも相談するよう、一日も早く屋島を落ちのびよ。」と勧めたので、光隆はじめ九人の兄弟も意を決し、兄弟連れ立って夜にまぎれて屋島をしのび出で、舟をやとい瀬戸内海を横ぎり、播州(ばんしゅう)明石に上陸して、丹波の大江山の麓をすぎ、若狭国にさしかかり、近江の国に出て琵琶湖に浮び、竹生島の弁財天に参詣して祈願をこめ、帰着の安穏を祈り、美濃国 尾張国から信州木曽路の難所をすぎ、碓水峠を越えて上野国に出て下野国に入り高館城に帰着した。
 父資隆の喜びもひとかたならず、城中深くしのびかくれて旅のつかれをいやし、親子諸共行く末を語り合う暇もなく梶原平三景時の発見するところとなり、このことを頼朝に言上すれば、頼朝は「資隆は如何に父親であろうとも、源氏の怨敵を忍びかくすとは不届である。」
 「直ちに那須高館の居城に押しよせて一族郎党を討ちとるべし。」と梶原景時に命じた。
 景時は、「那須家と申すは仲々武略の達者の集るところ、容易のものではなかろう。」と言上すれば、頼朝も「しからば江戸の強兵を集めるべし。何れは景時のよきように取計らえ。」といわれたので、景時も江戸葛西三郎清重(かさいさぶろうきよしげ)等の軍勢を加え、三千餘騎の大軍を引きつれて鎌倉を出発した。
 一方、宇都宮朝綱は景時の大軍が那須資隆の居城を攻めるために鎌倉を出発したことを知り、大いに驚き、このことを資隆のもとえ飛脚を走らせた。朝綱とすれば、資隆は娘の婿である。不意を討たれては一大事と、急報しなければならなかったのであろう。
 資隆もこの報を受けて驚き、一門にはかって家来を召集した。集る者には、
 後藤資秀(すけひで)  内藤兼信(かねのぶ)  後藤実隆(さねたか)  佐藤景衡(かげひら)
 斎藤安光(やすてる)  河田隆信(たかのぶ)  東宮光教(みつのり)  大田吉定(よしさだ)  荏原忠国
 その他、芦野、大田原、福原、森田、茂木、佐久山、千本、沢村、稲沢、片田などから馳せ参じたもの千餘騎となった。
 そこで山々谷々を堀りきり、かべをつくり、軍備おこたりなく整えつくし、中河(那珂川)を大手として防るいを築き今やおそしと待ち構えていた。
 ところが景時の軍勢は、三河守範頼をはじめ、武蔵守義信、遠江守義定等三千餘騎を引きつれて高館城に押しよせた。中河をへだてて城中を望めば、いろいろさまざまな紋所をつけた旗が四、五十流、春風になびいて威勢を示している。
 この戦の模様を「那須記」は、実におもしろく書いている。
 城には川を渡さば射んと、川岸に待ちかけける。三大将下知して、馬をさっと打ち入れ、強き馬を上に立て、弱き馬を下に立て、乱杭大石の間を打越え遠浅につきにける。須藤光隆、同泰隆、同幹隆、同実隆、八百餘騎打出で散散に射たりけり。那須に強弓数百騎ありて、さしづめ引きつめ射るほどに、先陣射立てられ、左右にぱっと引退き、三河守入り替りぬきつれて討ちかかる。
 例の如く、弓の手だれども、雨の降るが如くに射かけたり。範頼ことともせず、持楯をつき立てつき立て、坂中までせめ登るところに、城の兵七騎ふみとどまり防ぎける。寄手の先陣葛西八郎重時、江戸六郎、梶原刑部、八田八郎、四騎火花をちらして戦いける。大田三郎兼定は、江戸六郎重光が長刀ひつさげ、はせ寄り、ちょうと打ちけるを受け流し、重光を討ちけるが、妻手へ飛び去り、大田が馬手の股を切りたりけり。大田は、犬居に伏す所を、重光走り寄り、首を切らんとせし所を、大田持つたる太刀にてすそをなで、弓手の足を打ち落す。八田八郎、江戸六郎を肩に引かけ、本陣に引き返す。梶原刑部来って、大田が首はとりにけり。
 東宮四郎光教と名乗って打ってかかる。梶原さっと見ておがみ打ちに丁と打つ。東宮早業にて、切伏せたる古木をひらりととび越えける。梶原太刀を古木に四、五寸切込みて引かんとせし所に、東宮梶原が真甲を打破りけり。葛西八郎重時(かさいはちろうしげとき)、東宮をめがけて打ってかかる。城の中よりこれを見て、わめいて打つて出で、坂下まで追落す。日すでに晩景になりければ、敵川を越えて本陣に引き返す。
 よせ手多勢なりといえども攻めあぐんで、文治二年(一一八六)二月はじめより三月まで、空しく日数を送りけり。
 梶原平三景時は「大手へぞせめのぼり、難なくとも、東方は山続きにて足場よくば、今夜北の谷より忍び入り、東にまわり攻め落すべし。その時大手よりもせめ登りたまへ。」と言い合うて、梶原一家、其の外与力のもの五百餘騎、ひそかに中川を越えて北の谷に入りて見れば、山々谷々堀切り、大木切伏せ、逆茂木引きばい、かがり火たかせ、用心する体に見えける。
 梶原、これを見て、夜打には入りがたしと思いども、夜中せまり東の谷に着きけるが、いかにもして塀のきわまで打ち寄せ、壁を打破らんとしのびのぼりける。城内には、須藤五郎之隆夜打や入らんと、後藤右馬介と両人走り廻り見る所に、東の坂中にて人声かすかに聞えければ、ふしぎやとて櫓に登りて見れば、塀の下二十間ばかり下より、何とは知らずまつ黒にかたまりておし寄せる。之隆之を見て、兵に下知して、つなぎ置きたる大木を切って落せば、百本ばかりの大木一度にどっとむらがりたる中に落ちかかり、百余人みじんとなって落ちたり。たまたま生き残る士卒も、腰ひざを打ち折られて引き退く。
 後陣はこの木の落つるにおどろきて、なだれかかってかけおろす。あるいは逆さまに落ち、いやが上に落ち重って、友の打物に当りて、きずを受ける者数を知らず。梶原平三も、大木のはしにて馬の足を損じ、さかさまに落ちけるが、からき命を助かり、乗替えに打乗って、大勢うたれて引退く。これによって、大手の人々と合図相違しければ、攻め入ることもなく、梶原が振舞おかしかりけるありさまなり。案内も知らざる所に深入りして、多くの人を損さして、敵にも味方にも笑われたり。
 景時度々の合戦に打負けければ、梶原兵工景定を以て申しけるは、「今度の合戦に大勢討たれ無念なり。つくづく城の体を思うに、高山にて水あるべきとも思われず。定めて東北方の山つづきより、水を汲むと覚ゆるぞ。ひそかに見て参れ。」と、申しける。
 景定「かしこまり候。」と、家の子等うち連れて東北方に回り、よくよく見れば、案の如く艮(うしとら)の谷間より水を取ると覚えて、四、五尺ばかり底を堀りかけ、樋を埋め、城の中段に水を引取り、それより汲み上ぐる様子なり。景定この樋を二、三ケ所にて堀り切らせ、五、六日が間水汲みいかにと待ちいたり。城には、この事を知って水を汲まず。これによって、士卒水に渇して難儀すること十日ばかりなり。
 角田刑部入道覚宥、資隆の御前に参り申上げけるは、「諸士水にうえてたたかうとも負くべし。一たん、此の城を落させ給へ。城中の兵糧を点検仕って見申すに、上下五千人余ほどにて十日ばかりの食物なり。」と申し上げければ、資隆仰せけるは、「糧つきれば東方の小勢を夜討に打取り、其の紛れに糧を引入るべし。水のことは先ず敵の心をはかって見よ。大手の門外に馬を引き出し、湯洗いする体を見せよ。しからば敵は城内に水沢山ありと心得て、東方の敵ども引くべし。其の時心安く水を汲むべし。」と、仰せける。角田、「承り候」と、二、三百匹の馬を引き出し、白米を汲みかへ汲みかへ見せければ、敵数百間をへだてて之を見、「城内には水とぼしく難儀ならんと思いしに、大成出水ありと覚ゆるぞ。東方の軍勢引きとれ。」とて、皆本陣に引かせける。城内の兵よろこび、谷底より水をとり、二度渇命を助かりけり。
 よせて今は一同に四方より攻めのぼらんと言い合す。明くれば四月五日に、武蔵守義信一千餘騎、江戸葛西の人々を先陣として大手より攻め上る。
 東は三河守範頼九百餘騎、梶原を先陣として攻め上る。城中にては一千餘騎を三手に分け、東西には久隆、之隆、泰隆士卒を下知して、大石を雨ふるこどく投げちらす。これによって、先陣の梶原大勢手負いて坂下に引退く。北のよせ手遠江守八百餘騎にて上りしを、幹隆、実隆二百五十騎にて打出で、つなぎある大木を切って落せば、死者数しらず。残る者ども手きずを負いて引退きたれども、城内の兵小勢なればあへてかけ合う者もなし。大手一千餘騎にて討って出で、坂中にて渡り合い合戦す。寄せ手より葛西七郎重時、八田八郎知信両人まつ先に進みける。光隆は、彼の両人に取籠めらる。東宮光教かけへだてるところに、八田光教が高腕を打落す。光教踏みこんで片手打に打ちければ、八田が真中二つに打ちわりけり。葛西これを見て、切ったりや東宮と馳せ寄って丁と打ちければ、弓手の肩先より馬手の乳の下まで切ったりけり。光隆郎党打たれて無念におもひ、葛西にがさじと追っかけ、火花を散らして戦いしが、終に葛西を打ち取りたり。されども寄手大勢せめ上り、堀を越え、塀やぐらに取りついて、一度にどっと打破る。
 城中より七百餘騎打って出で、従横十文字に切って回る。城にはかねて案内者、よせ手はここかしこの険難にて自由ならず。坂下に引いて行く。すでに日も暮れければ、本陣に引返す。
 遠巻してぞ居たりけり。
 さるほどに寄手の陣屋の前を六十ばかりの老婆餅を売って回りけるが、利口にて、四方山の物語をしける程に、一定この老女城のありさまを知りたらんと皆評定し、江戸太郎重長、老女をわが陣屋に呼び入れて米銭を与へければ、老女心よげにて、「あっぱれ殿は名将かな。此の度の大将と覚ゆる。さりながら数月経てせめ給うとも城堅固にて落つべからず。城の己寅に、かけ桶ありと承る。それを堀り切り候はば、軍兵水に渇して死すべし。」重長聞いて、「人夫を以て堀り切り候が、城中に出水ありと覚えて、馬を湯洗ひすること再三なり。」老女承り、「それは皆計略と存じ候。放火し給はば消す水なくて、必ず焼落し給わん。」と申しければ、重長大いによろこび、三河守殿に件の由申上げ範頼御喜びあって、「いかがして城を焼かん。」と仰せければ、梶原申すよう、「鶏を集めて、尾羽に火をかかぐりつけ、追い登らせ候へば、必ず焼け申すべし。」と言う。
 さらば鶏を集めんとて在家に人を遣わし、五十羽程集め尾羽に火をいんしゅうせうのうを以てからくりつけ、城に向って追い上げければ、十七、八羽は脇にとび行きけるが、残りは城の屋根、或はやぐらなどにとびのぼり、火もえたち、鳥もそれに驚きてとびまわるほどに、火ばな八方にもえ立ちけるを、諸士消さんとすれども水なく、十方より焼けいづる。
 敵は四方よりせめ登る。城中の兵、我れ先にと落ち行きけり。資隆父子北谷に出で、険難岩石をも飛び越えはねこえ落ち給う頃は、五月二十六日子の刻ばかりのことなれば、くらさは暗し、敵追いかけけれども、遂に見失いて引返す。三大将高館をば焼落しけれども、資隆父子が中に一人も打たざれば無念に思い、出々谷峰大勢にて尋ねけれども、其行方は知らざりけり。力およばず、皆鎌倉に帰陣し、右の次第を申上げ、頼朝聞し召し、「重ねてさがして誅すべし。」と、三大将御暇たまわり、皆本国に帰りけり。
 資隆は八溝山のふもとに忍びけるが、事鎮まって後、福原の城に入り給う。九人の子供は一先ず信濃の辺へ落ち行き、時節を待つて宗隆を頼みて訴願申上げ、帰参を願ふべしと教えて、木曽の山家へ逃しけり。

 以上が「那須記」「高館落成の事」に書いてある戦の模様である。
 しかし梶原景時、三河守範頼が三千の兵を引き連れて高館城を攻めたことについて、鎌倉の「政治日記」ともいうべき「東鑑」には全然記載されてなく、かつ資隆の軍に馳せ参じた武士中、大田原、福原、森田、茂木、佐久山、千本、沢村、稲沢、片田、などとあるが、大田原氏の起ったのは、康清が町島の水口館に居住したのに始まり、延徳(一四八九―一四九一)明応(一四九二年頃)の頃とすべきで、文治二年(一一八六)よりは三〇〇年も後のことである。また福原、森田、茂木、佐久山、千本、沢村等の諸氏は、九人の兄弟が頼朝の赦を得て後に分知され(文治三年以後)その後に起った武士団であり、この点から考えても一般にいい伝えられている。「高館落城に関する那須記の記事」には大いに疑を持たざるを得ない。