その後平家は滅亡して、西国は無事におさまったので、軍勢は鎌倉に引きあげ、余一宗隆は頼朝より那須の総領をたまわり、さらに五カ国の所領をたまわった。
餘一宗隆勧賞の地について最近小川町の文化財専問委員関根顕英氏が中心となり、勧賞の地と考えられるそれぞれの教育委員会に依頼して調査した結果が、冊子「那須家の研究」に発表されているので、参考のために左に掲げる。
一、信濃国角豆庄
長野県教育委員会文化財係長
金井汲二氏よりの回答
金井汲二氏よりの回答
所在地、史料等は不明である。
角豆庄(ささげ)と読むかと思うが、伝承では東筑摩郡(松本市周辺)にあったといい、大豆島(まめじま)(長野市)にも考えられる由である。
角豆庄(ささげ)と読むかと思うが、伝承では東筑摩郡(松本市周辺)にあったといい、大豆島(まめじま)(長野市)にも考えられる由である。
(文化財専問委員 米山一政)
松本市教育委員会
原嘉藤氏
角豆庄とあるのは「捧の庄(ささげのしょう)」のことかと思う。同所は松本を中心とした地域で、今でも庄内の地名を残している。
正しくは「捧勅旨(ささげてし)」とも言われ、鳥羽天皇の皇女、璋子内親王(八条院)の所領であり、順徳天皇、亀山上皇、後宇多上皇、昭慶門院に伝わったものである。
順徳上皇所有の時、幕府から没収されるが、なお皇室領として後世まで伝わる。
餘一が恩賞として貰ったとしたら、その一部ではなかったか。
原嘉藤氏
角豆庄とあるのは「捧の庄(ささげのしょう)」のことかと思う。同所は松本を中心とした地域で、今でも庄内の地名を残している。
正しくは「捧勅旨(ささげてし)」とも言われ、鳥羽天皇の皇女、璋子内親王(八条院)の所領であり、順徳天皇、亀山上皇、後宇多上皇、昭慶門院に伝わったものである。
順徳上皇所有の時、幕府から没収されるが、なお皇室領として後世まで伝わる。
餘一が恩賞として貰ったとしたら、その一部ではなかったか。
二、若狭国東宮庄
福井県教育委員会
武藤正典氏
宮川庄は現在の小浜市の新保、矢代、田島、宮川、加茂の小浜市の東部にある。
地元では那須与一の伝説もあるが、
東鑑(吾妻鏡)
武藤正典氏
宮川庄は現在の小浜市の新保、矢代、田島、宮川、加茂の小浜市の東部にある。
地元では那須与一の伝説もあるが、
東鑑(吾妻鏡)
「文治四年九月、若狭国司申 松永 宮川保地頭宮内大輔重頼不レ随二国命一事。云々」とあって、重頼の領地「若狭国東宮川庄は頼政に賜わる」と記し、現在地元では頼政に賜わったとの説が強い。
古文書類も多く、頼政の娘が二条院讃岐妃でこの二条院の「沖の石」が残っている。源頼政の館跡が大谷に残っていて、中納言顕隆の曽孫重頼が頼政の聟(二条院の夫)であり、宮川領を支配したとの説もあるがくわしくはわからない。
古文書類も多く、頼政の娘が二条院讃岐妃でこの二条院の「沖の石」が残っている。源頼政の館跡が大谷に残っていて、中納言顕隆の曽孫重頼が頼政の聟(二条院の夫)であり、宮川領を支配したとの説もあるがくわしくはわからない。
三、丹波国五賀庄
京都府教育庁文化財保護課
当課ではよくわからない。兵庫県立丹波資料館に尋ねて下さい。
当課ではよくわからない。兵庫県立丹波資料館に尋ねて下さい。
四、武蔵国太田庄
返信なし、
日本国誌資料叢書「武蔵」太田 太田亮著 荘保 埼玉郡
東鑑 太田庄
建久五年二月十六日、文治四年六月四日、
建久五年十一月二日、寛喜二年正月二十六日、
日本国誌資料叢書「武蔵」太田 太田亮著 荘保 埼玉郡
東鑑 太田庄
建久五年二月十六日、文治四年六月四日、
建久五年十一月二日、寛喜二年正月二十六日、
合村百八十、其余大里郡に二村あり、今南埼玉郡諸村 岩槻より鷺宮までの間に太田庄の私称あり。近世は騎西領、百間領菖蒲領 岩槻領の諸村に広く太田の庄名を称え、百八十四村に及ぼせりと、
増補大日本地名辞典
文学博士 吉田東伍著
武蔵 埼玉 南埼玉郡
太田(オホタ)郷
二書とも領主の名が見えず、余一との関係は不明である。
文学博士 吉田東伍著
武蔵 埼玉 南埼玉郡
太田(オホタ)郷
和名抄 埼玉郡太田郷 訓於保太、今南埼玉郡の諸村、岩槻より鷺宮までの間に太田庄の私称あり、古郷の堺域は明白に説き難しと雖も、大略笠原郷の東草原郷の中央にあたられるに非ずや 以下略
二書とも領主の名が見えず、余一との関係は不明である。
(烏山町文化財保護委員長義煎平佐)
以上四っの郷庄とも餘一との関係は全く不明であり、果して餘一が勧賞として四っの庄を貰ったことが事実であったかどうか、今後の研究に期待せねばならない。