第二節 那須餘一宗隆の屋島のほまれ

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 元暦二年(一一八五)二月、都をたって摂津の国から鵯越をし、一の谷の坂落しに成功した源氏は、さらに八島(屋島)に落ち行く平家を追いかけ最後の決戦となった。ときに義経は為隆と宗隆とを膝下に呼んでいうには、「今度源氏の総軍は屋島に於て秘術をつくして戦わねばならぬ。両人共に心せよ。」と仰せられ、義経の先陣八十余騎屋島の浦におしよせた。ちょうど二月二十日の卯の刻(朝六時)に、ここを最後と戦うことになった。義経はついに焼き打ち戦法をもって、屋島の在家一千余家に一度にどっと火を放った。炎々と燃えさかる炎の中に上を下への大さわざとなり、平家の軍勢は妻子とともに海上にのがれた。源氏の後陣は屋島の炎上の煙を見て馳せ参じ、源平入り乱れての大激戦が、朝の卯の刻(朝六時)からはじまった。ところが夕方になって平家方から一そうの船が海上にあらわれた。船のへさきには竿が立ててあって、その先には日の丸の扇が開いてつけてあり。竿のもとには美しい官女が立っている。いかにも「源氏にそれはどの弓の達者がいるならば、この扇を射てみよ。といわんばかり、静かに源氏方へとこぎ出してきた。その女官は玉虫の前とて当年十九才の絶世の美人。柳色、五つ重ねの振袖に、紅の袴をつけ、扇を射よと招いている。源氏の大将義経は、畠山重忠を呼んで、「誰にあの扇の的を射させようか。」と相談したところ、那須為隆にということになったが、為隆は鵯越(ひよどりごえ)の戦でひじを痛めているので、弟の餘一宗隆に射たせてはということになり、宗隆仰せをかしこみついに意を決す。早く早くといそがるるままに、かぶとを抜いで鳥帽子(えぼし)をかぶり、薄紅梅の鉢巻をして、鵜黒の駒にまたがり扇の方に向かう姿は、勇ましく、あっぱれな雄々しいありさまであった。源平両陣鳴りをひそめ、手に汗をにぎって、胸をしずめている。宗隆、しずしずとなぎさに進め、鵜黒の駒をざんぶと海中に乗り入れた。潮煙りをたたせながら鞍爪(くらづめ)、あぶみの菱縫(ひしぬい)までももぐるまで乗り入れた。やがて日輪におそれありと考えて弓をとりなおし、「日本国の八百万神(やおよろずのかみ)ましては南無八幡大菩薩、源氏運あらば、あの的射させ給え。」と重藤(しげとう)の弓に鏑矢(かぶらや)をつがえ、しばしかためてヒョーと放った。その矢はぶっつり要を射切って、扇は空へとびあがり、ひらめくありさまは蝶の飛行(ひぎょう)のようであった。平家方は船ばたたたき、男女上下にいたるまで射たり射たりとほめたたえ、源氏の方は箙(えびら)をたたき、「さて射たりや、よう射たりや、よう射たり」と、ほめはやす声は天地にひびきわたって鳴りやまなかったと、那須記に記されている。
 その後平家は滅亡して、西国は無事におさまったので、軍勢は鎌倉に引きあげ、余一宗隆は頼朝より那須の総領をたまわり、さらに五カ国の所領をたまわった。
 餘一宗隆勧賞の地について最近小川町の文化財専問委員関根顕英氏が中心となり、勧賞の地と考えられるそれぞれの教育委員会に依頼して調査した結果が、冊子「那須家の研究」に発表されているので、参考のために左に掲げる。
一、信濃国角豆庄
    長野県教育委員会文化財係長
          金井汲二氏よりの回答
所在地、史料等は不明である。
角豆庄(ささげ)と読むかと思うが、伝承では東筑摩郡(松本市周辺)にあったといい、大豆島(まめじま)(長野市)にも考えられる由である。
(文化財専問委員 米山一政)


 
    松本市教育委員会
          原嘉藤氏
 角豆庄とあるのは「捧の庄(ささげのしょう)」のことかと思う。同所は松本を中心とした地域で、今でも庄内の地名を残している。
 正しくは「捧勅旨(ささげてし)」とも言われ、鳥羽天皇の皇女、璋子内親王(八条院)の所領であり、順徳天皇、亀山上皇、後宇多上皇、昭慶門院に伝わったものである。
 順徳上皇所有の時、幕府から没収されるが、なお皇室領として後世まで伝わる。
 餘一が恩賞として貰ったとしたら、その一部ではなかったか。
 
二、若狭国東宮庄
    福井県教育委員会
          武藤正典氏
 宮川庄は現在の小浜市の新保、矢代、田島、宮川、加茂の小浜市の東部にある。
 地元では那須与一の伝説もあるが、
 東鑑(吾妻鏡)
「文治四年九月、若狭国司申 松永 宮川保地頭宮内大輔重頼不国命事。云々」とあって、重頼の領地「若狭国東宮川庄は頼政に賜わる」と記し、現在地元では頼政に賜わったとの説が強い。
古文書類も多く、頼政の娘が二条院讃岐妃でこの二条院の「沖の石」が残っている。源頼政の館跡が大谷に残っていて、中納言顕隆の曽孫重頼が頼政の聟(二条院の夫)であり、宮川領を支配したとの説もあるがくわしくはわからない。

三、丹波国五賀庄
    京都府教育庁文化財保護課
 当課ではよくわからない。兵庫県立丹波資料館に尋ねて下さい。
 
四、武蔵国太田庄
  返信なし、
  日本国誌資料叢書「武蔵」太田     太田亮著 荘保 埼玉郡
 東鑑 太田庄
  建久五年二月十六日、文治四年六月四日、
  建久五年十一月二日、寛喜二年正月二十六日、
合村百八十、其余大里郡に二村あり、今南埼玉郡諸村 岩槻より鷺宮までの間に太田庄の私称あり。近世は騎西領、百間領菖蒲領 岩槻領の諸村に広く太田の庄名を称え、百八十四村に及ぼせりと、

 
 増補大日本地名辞典
      文学博士 吉田東伍著
 武蔵 埼玉 南埼玉郡
  太田(オホタ)郷
和名抄 埼玉郡太田郷 訓於保太、今南埼玉郡の諸村、岩槻より鷺宮までの間に太田庄の私称あり、古郷の堺域は明白に説き難しと雖も、大略笠原郷の東草原郷の中央にあたられるに非ずや 以下略

 二書とも領主の名が見えず、余一との関係は不明である。
(烏山町文化財保護委員長義煎平佐)

以上四っの郷庄とも餘一との関係は全く不明であり、果して餘一が勧賞として四っの庄を貰ったことが事実であったかどうか、今後の研究に期待せねばならない。