第三節 宗隆京都にあって急逝

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 鎌倉帰陣の後宗隆は、頼朝公の御前に進みでて「私が西国で扇の的を射ることが出来たのは京都の石清水八幡に祈願して、神の冥助を得たからであります。ついては、是非とも御礼のため参詣いたしたく、何とぞ御許しをいただきとう存じまする。」と申し上げると頼朝公も非常に喜んで、「さもあらん。早う早う。」と、余一は大いに喜び角田源内に、その用意を申しつけ、お供には舎弟の御房子頼資、四郎資信、大田原藤八基清、大輪七郎重安、荏原六郎貞国、東宮太郎光忠、高瀬次郎基時、五箇三郎資通等を先として二百余人を引きつれて鎌倉を出発、箱根、三島などそのほかとおる道々神社、仏閣にも参詣した。
 近江に入っては湖水に船を浮かべ、竹生島に一同お礼まいりをすまして、大津にあがり、それから伏見に到着して雄徳山に登り、八幡宮に社参して御神楽を献し、ねんごろに伏し拝み、山を降りて、それから大内に参内した。
 そのとき帝は、非常に喜ばれて宗隆を那須下野守資隆に任ぜられた。資隆というのは宗隆の父の御名であるから、今日いう襲名であったろう。「これは、まさに扇の的を射とめた忠賞であるぞ。」といわれ、宗隆もありがた涙にむせびながら、帝(後鳥羽帝)の御前をうやうやしく退出し、伏見にしばらく逗留して、旅の疲れを休めようとするころ、わずかの風邪気味に悩まれ、療養につとめたけれども、次第に病気が重くなり、ついにこの伏見の地で病没された。御家人等のなげき悲しみはひとかたならず、伏見即成院において葬儀を営み、遺骸をこの即成院に葬ったともいう。
 那須記には「頼資、重安、基時等一同申し合せて、なきながらを本国にお供して、みたまやを建て申さんとて、下野にお供して、恩田村に御廟を築いて、御霊宮と号し、みなみなあがめ奉る。」とある。あるいは分骨したか、または頭髪なりを恩田の地に葬ったのが御霊宮ではないかと思う。
 恩田も神社の御田で、恩を御が通じて恩田村となったのであろう。今の小川町に属するこの御霊宮もはたして誰人の建立したものかたしかではないが、宗隆の戦功をたたえてその威徳をしのぶために建てられたものに相違ない。しかしはたしてこの恩田の地に分骨して墓地を築いたかも判然としない。
 とにかく那須餘一宗隆は、福原の餅つき歌にもあるように、色白な美男子で、小柄な武人であったらしく、病気もロウガイという病名で、今日の肺結核ではないかといわれている。いずれにしても餅つき唄には「那須の餘一は三国一の、男美男で旗頭」と歌われている。生まれたのが仁安元年(一一六六)とすると、病没した文治五年(一一八九)は二十四才ということになる。
 平家の滅亡が文治元年であるから、それから四年目の文治五年八月八日のことである。餘一が扇の的を射落したのが十九才という若年だが、天下第一等の弓の名人であるし、義経の家来になって出陣したのが治承四年とすると、死んだのはそれから十年目ということになる。そのとき義経は三十一才。頼朝は四十三才という分別盛りのいわゆる男盛りの年令であった。
 また余一の戒名として残っているものにも二つあるが、一つは曹源院吉山英祥大禅門、もう一つは、月山洞明大禅定門、というのである。福原の玄性寺の供養碑には、曹源院云々………という戒名が刻まれている。