「恭伝承当社神明者昔日為二凡夫一時建御名方命也。然其比奉レ蒙二天孫之勘気一偶降二下此国郡一、逼迫其也其後遇二天之恩赦一再開二勧喜之眉一並賜二受此国一永為茅孫潅浴之地。終宮レ於二北国一郡也今其甲等蒙二武将頼朝公之勘気一是則与二力於平氏一故也去年与二父母一引受二天下之大勢一巳雖レ及二合戦一味方無勢敵者多勢終一門打負不慮佐二辛命而迷二来於此貴境一依之世界雖レ広無二安レ身処一無二朝露便一加之遠離二父母恩愛之国一疎二絶兄弟親戚之好一朝夕歎而有二余恨一無レ尽哀願追懐神明昔日逼迫之情照一臨我等今世歎很之心一偏加一神明力一努武修憤仰冀早降一下天赦一令下某甲等無事而帰二本国一附中父母之定省上然則於レ国建二宮社一崇二当神体一永伝二子孫一宜レ奉レ仰二那須之氏神一者也。不レ堪二悲愁之至一同抽二丹誠一所二祈念一也誠徨頓首再拝。
文治三年丁未二月 日
奉納 太郎光隆(てるたか)
諏訪大明神 次郎泰隆
御社内 三郎幹幸
四郎久隆
五郎之隆
六郎実隆
七郎満隆
八郎義隆
九郎朝隆
文治三年丁未二月 日
奉納 太郎光隆(てるたか)
諏訪大明神 次郎泰隆
御社内 三郎幹幸
四郎久隆
五郎之隆
六郎実隆
七郎満隆
八郎義隆
九郎朝隆
真偽の程は別として「那須記」のこの願書を読むと九人の兄弟の窮状もわかるような気がするのである。
やがて九人の兄弟にかわり五郎之隆が宗隆に逢い、つぶさにこの様子を宗隆に語り、宗隆また畠山重忠を介してこのことを頼朝に言上した。頼朝からは「彼等は当家の敵の者ではあるが、父資隆は我に味方し宗隆は忠節をつくしたかどにより命を助け得さす。」との御言葉があり、重忠も面目をほどこして、御前をさがり宗隆に伝えた。こうして九人は、宗隆の功労と畠山重忠等のとりなしで頼朝からその罪をゆるされ、一同無事に那須の地に帰ることができたのである。
一方、余一宗隆は屋島の戦の功によって、鎌倉より下野武者所に任ぜられ(いい伝えだけで記録にはない)、那須の総領として宗家を継ぐこととなり、十人の兄には父資隆とも相談のうえ、次のように分知した。
太郎光隆(てるたか)
森田を分知する。森田太郎といい、元荒川村森田に築城、子孫森田氏を称した。
次郎泰隆
佐久山を分知する。佐久山次郎といい佐久山御殿山に築城、子孫佐久山氏を称した。
三郎幹隆(もとたか)
芋渕を分知する。芋渕三郎といい、元伊王野村大字睦家字芋渕に築城、子孫芋渕氏を称した。
四郎久隆
五郎之隆
福原に居住、兄四郎久隆子なく、よって之隆之をつぐ、後宗隆の歿後那須宗家を継ぐ と、
1久隆
2資広 幼名相知不申候 久隆養子総領 福原周防守
実福原五郎之隆嫡子
母之父性名相知不申候
妻同断 以下略
とあるのが通説である。いづれが真、偽、後證を待つ。
六郎実隆
滝田を分知する。滝田六郎といい、元七合村滝田に築城、子孫滝田氏を称した。
七郎満隆
八郎義隆
九郎朝隆
稗田を分知する。稗田九郎といい、元野崎村豊田(元稗田)に築城する。
十郎為隆
御房子
初め資頼と号したが、後頼朝から偏諱を賜わり、頼資と改めた。
森田を分知する。森田太郎といい、元荒川村森田に築城、子孫森田氏を称した。
次郎泰隆
佐久山を分知する。佐久山次郎といい佐久山御殿山に築城、子孫佐久山氏を称した。
三郎幹隆(もとたか)
芋渕を分知する。芋渕三郎といい、元伊王野村大字睦家字芋渕に築城、子孫芋渕氏を称した。
四郎久隆
福原に分知する。福原四郎といい、福原に築城す。と、(一説には湯津上村佐良土であろうとの説もある。後述)
五郎之隆
福原に居住、兄四郎久隆子なく、よって之隆之をつぐ、後宗隆の歿後那須宗家を継ぐ と、
これが五郎之隆に対しての通説であるが、福原家系図(福原達郎氏蔵)資広の条に次のように書いてある。
1久隆
2資広 幼名相知不申候 久隆養子総領 福原周防守
実福原五郎之隆嫡子
母之父性名相知不申候
妻同断 以下略
これによってみると久隆の跡を継いだのは之隆ではなく之隆の嫡子である。ということになる。然し宗隆早世して嗣なく、五郎之隆家督をつぎ、資之と改名、資之又また子なく十二男御房子を以て後を嗣がしめた。御房子の母は宇都宮朝綱の女で、(余一宗隆までは小山氏の女)初め資頼と言ったが後頼朝の偏諱の一字を貰い頼資と改めた。
とあるのが通説である。いづれが真、偽、後證を待つ。
六郎実隆
滝田を分知する。滝田六郎といい、元七合村滝田に築城、子孫滝田氏を称した。
七郎満隆
沢村を分知する。沢村七郎といい、元野崎村沢に住し、子孫沢村氏を称したが、後沢村を棄てて境村に移り、更に烏山城に移り、那須氏を称した。
八郎義隆
堅田を分知する。堅田八郎といい、黒羽町片田に山田城を築いて住したが、後小川町片平に移り、片平八郎と称した。
九郎朝隆
稗田を分知する。稗田九郎といい、元野崎村豊田(元稗田)に築城する。
十郎為隆
千本を分知する。戸福寺十郎といい、芳賀郡須藤村大字千本に築城、千本を氏とし子孫千本を称した。
初め戸福寺を称したのは、屋島の戦に、義経の命に背いて追放され、信州諏訪の戸福寺に隠れていたからであると。
初め戸福寺を称したのは、屋島の戦に、義経の命に背いて追放され、信州諏訪の戸福寺に隠れていたからであると。
御房子
初め資頼と号したが、後頼朝から偏諱を賜わり、頼資と改めた。
頼資那須家を継ぎ、長男太郎光資家督を襲い、その子孫伊王野氏、稲沢氏、河田氏等が出て、家門は益〻栄えた。
(那須郡誌より)