鎌倉を中心とする源氏の将兵は、今までの張りつめた戦闘に対する熱意と関心がしだいに薄らぎ、武士としての教養と修練とを忘れ、その精神的支柱であるはずの質実剛健の気風も失なわれる形勢となった。
頼朝が彼等武士団に対し、弓馬の練磨を奨励し大いに野山をかけめぐらせて巻狩を行なったこともこのためであり、士気の沈滞を防ぐための対策であった。その巻狩のなかで、那須野と富士の裾野で行なわれたものは、史上最大の盛事であり、鎌倉幕府の一大絵巻といわれている。
建久四年(一一九三)三月、源頼朝総大将となり、和田義盛、千葉常胤、三浦義村、畠山重忠、小山朝政、梶原景時等の重臣その他の將およそ百騎、総勢実に一万余騎である。二十一日鎌倉を出発、四月二日那須野に到着、狩野郷に陣屋をかまえた、巻狩は二十二日間にもおよび、まさに関東武者の腕のみせ場でもあった。
このことを那須記、那須郡誌、創垂可継、那須家系図および東鑑から拾ってみると、
狩倉は今日の那須町、黒磯市、西那須野町、旧金田村、旧川西町の、六里(二十四キロメートル)四方の地域におよんだという。
東小屋、南郷屋、上郷屋、夕狩、弓落、十六竈等の地名はそのときの狩場のいわれを物語るところであるといわれている。
頼朝はこの盛事を催すに当り、この地の地頭たる那須光資(東鑑には光助)に食邑を加増してその準備にあたらせた。
東鑑建久四年三月の条に
「九日丙子、那須太郎光助、拝二領下野国北条内一村一、是来月於二那須野一、可レ有二御野遊一之間 為其経営、被二死行一之」云々。
「九日丙子、那須太郎光助、拝二領下野国北条内一村一、是来月於二那須野一、可レ有二御野遊一之間 為其経営、被二死行一之」云々。
とある。
東鑑建久四年三月十五日条に
壬午 近日依レ可レ有二那須野御狩一 所レ被レ構二藍沢之屋形等一、以二宿次(やどなみ)人夫一 壞二渡下野国一
壬午 近日依レ可レ有二那須野御狩一 所レ被レ構二藍沢之屋形等一、以二宿次(やどなみ)人夫一 壞二渡下野国一
とある。
藍沢之館とは、駿河国鮎沢の地(御殿場の東北足柄村)で頼朝の宿舎にあてるための館であったのを取壞してはるばる那須野の地に建てたものである。
那須系図に、
建久四年頼朝卿、那須野御狩之時、賜二備前河田庄一 長倉、構二屋形一、献二御膳一 云々
とある。
準備が調って頼朝は、三月二十一日、鎌倉を出発した。
同書に
廿一日戌子、旧院御一廻之程者、諸国被レ禁二狩猟一、日数巳馳過訖。仍将軍家、為レ覧二下野国那須野、信濃国三原等狩倉一 今日進発給。自二去比一所レ被レ召下聚馴二狩猟一之輩上也。其中令レ達二弓馬一、又無二御隔心一之族、被レ撰二二十二人、各令帯弓箭 其外縱雖及二万騎、不レ帯二弓箭一 可レ為二踏馬衆一之由被レ定 云々
相当に厳重な手配であり、また用心も堅固であったようである。
前文にでてくる二十二人とは、江間四郎、武田五郎、加賀美次郎、里見太郎、小山七郎、下河辺庄司、三浦左衛門尉、和田三衛門尉、千葉小太郎、榛名四郎、諏訪太郎、葛西兵衛尉、望月太郎、藤沢次郎、渋沢次郎、佐々木三郎、梶原左衛門尉、工藤小次郎、新田四郎、狩野口介、宇佐美三郎、土屋兵衛尉、である。
四月二日、愈狩猟を開始した。
すなわち同書に
戊戌 覧二那須野一 去夜半更以後、入二勢子一、小山左衛門尉朝政、宇都宮左衛門尉朝綱、八田右衛門尉知家、各依レ召献二千人勢子一……那須太郎光助奉二駄一餉 云々
ここでは勢子三千といっているが、「那須記」では「十万人勢子、五千余騎の武士の喚く声は、百千の雷集りて鳴り渡るも斯やと思われけり。」といっている。
また、「那須野広しといえども、人馬充満してすきまはなかりけり。」ともいっている。
相当な誇張はあるにしても一大盛事であったことには間違いなく、大山鳴動鼠一匹の観はあっても、鹿、熊、狐などそれぞれの獲物があったものと考えられる。特に弓矢にすぐれた那須太郎資光(東鑑、光資)が地勢に明るいままに大野をかけめぐり、部下の兵とともに功名手柄をあげたであろうことも想像でき、頼朝からは特におほめの言葉があり、
「先刻言いし手柄に符合しほとんど感じ入り候。この度の忠節に源氏の白旗をとらすなり。先例にまかせて那須の武者所に任ずべし。もし国乱れん時は、この旗を持たせでて、随分忠をつくし給へ。」
といわれ、源氏の白旗一流を頂戴した。とある。すなわち、那須家系図、光資の条に
「家伝記曰此時於長倉山献御膳且褒賞被召預、御旗 一丈二尺一幅地絹 横紙滑草也 惣白御旗 今尚伝来 蒙可為一旗長之命因茲長倉山日鎌倉山同二十三日那須等御狩事終之間藍沢屋形又可運還駿河国之由被命。」
とあり、那須太郎光資としては大へんな面目をほどこしたことであるが、このことは一部東鑑にもみえているので真実性があるものと考えられる。
四月二日開始した狩倉は、同月二十三日終わった、実に二十二日におよんだのである。
鎌倉を隔てた僻遠の地に、この壮挙のあったことを思えば、まさに天下の盛事であったといっても過言ではないように思う。
武士の矢並つくらふ小手の上に 霰たばしる那須の篠原 源実朝
道多き那須の御狩の矢さけびに 逃れぬ鹿の声ぞ聞ゆる 信実朝臣
狩人の弓末ふりたてちかへども 笠はた見えぬ那須の高萱 権僧正
さを鹿の山路にかえる道なれや 那須野の原の露のむら消え 藤原朝親
大田原市北金丸 長倉公民館の北に長倉館跡というところがある。(写真1)林田則夫氏、熊田一郎氏の西側を流れる曽の川を外壕の一部として、東西約二百五十メートル、南北約三百メートル程の外壕のなかに東西百二十メートル、南北百五十メートル、相当に大きな居館跡である。北金丸林田六郎氏やその母の話によると、「昭和二十年頃までは、このところは全面畑地で土壕のあとがはっきりしていたが、その後は水田となって、僅かに外濠と思われる跡が残っているだけである。」と
写真1 長倉館があったと伝えられる北金丸長倉
源頼朝の那須野巻狩の条に駿河国から藍沢の屋形を運び、頼朝の宿舎とし、四月二日の条に「那須太郎光助奉二駄餉一」とあり、那須系図に長倉館に於て餉を奉るとあるのはこの地ではなかろうか。
林田六郎氏の水田の一隔に内膳さまの碑というものがあり高さ二メートル、幅一メートル弱の石碑で、「長倉館で頼朝にさしあげる料理を作った人の頭の碑である」とのいい伝えがある。
その後の豪族長倉氏がどうなったかについては知ることもできないが、那須家系譜那須二郎修理大夫資胤の条に「永禄十年丁卯(一五六七)佐竹義昭と下境村大川井の山麓での戦に長倉遠江守や金丸肥前守等も出陣、長倉士人大半死傷」と、記されている。この長倉遠江守は前記の長倉館の主と関係があるかどうか、全丸肥前守などと一緒に出陣しているところをみると、長倉館の主であるような気がするのである。