第六節 那須・小野寺両氏の関係とその活躍

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 那須氏が源平興亡時代の先駆として下野北方を代表するのに対し、南方を代表するのが小野寺氏である。

小野寺氏略系
藤原秀郷四代

 小野寺氏は、秀郷八代の孫助通が三河に住んで首藤を姓とし、源頼義に従い七騎の一人に推されて、武勲をたてているから、すでにこのころから源氏の陣営に加わっていたものと思われる。
 首藤俊通、俊綱父子は保元の乱に義朝に従ったが、俊通の弟小野寺義寛は為義の軍にあったようで、このように父子兄弟が敵味方の陣に分れることは当時珍らしくなかった。
 ところで、小野寺氏と那須氏とが同族であり、共に藤原氏を祖とし、しかも近い親族となっていることを知らねばならない。
 まず小野寺氏は藤原秀郷を祖とし、第一代文行の母は鎮守府将軍藤原利仁の女、佐藤、近藤、後藤、武藤、尾藤、首藤ら藤字の姓の多くはその分脈である。文行六代の孫として俊通(後に俊満と改む)が現われ、那須氏は、藤原兼家の五男道長を経て長家―道家―資家(貞信)―資通―資満―資清―宗資―資房―資隆(余一宗隆の父)となる。
 この資満が実は小野寺俊通(俊満)の兄であり(那須記)弟義貞になって初めて小野寺姓を名乗った。
 こうして資満の子資清が、平治の乱に源氏方に属して討死をし、一方小野寺氏は俊通(俊満)とその子俊綱とがこの乱で戦死する。同族の正清は義朝の陣にあって功名第一のほまれをかがやかしたが、翌平治二年(一一六〇)正月三日尾張にあって長田忠宗のため主君義朝とともに謀殺された。
 さて東国に落ちのびたときの敗将義朝は義平、朝長、頼朝(時に十三才)の三人の子の他に正清(政家と改名)など近臣わずかに五騎となり白一色の昿野に道踏み迷って頼朝の姿をみ失ない、美濃のほとりで三人の子らに再起を図れと諭して別れ、やがて政家に案内されて尾張国野間の長田忠致(忠宗ともある)の家に身をひそめた。忠致の女が政家の妻となっている関係によるものである。
 ところが義朝は湯殿にあって斬られ政家もこれに殉じて殺された。このとき義朝と政家は共に三十八才。別室にあった政家の妻は非業の死を遂げた夫の剣をとって見事に自刃し、ひとり義朝の寵児金王丸が馬を奪って京都に走り、義朝の愛妾常盤を尋ねて夫君の死を告げた。その後は、源氏再興のために狂奔している。
 先に捕えられた少年頼朝は、六波羅に送られ清盛の後室池の禅尼の慈悲により危く死をまぬがれて伊豆に流され、常盤は捕えられて今若、乙若、牛若の三子を各々僧籍に入れることを条件に死を免ぜられた。幼い子らは、散りぢりに母の懐から別れ、常盤は清盛に引きとられた。以後は、美人薄命といおうか薄幸な生涯を送る身となった。