治承四年(一一八〇)の暮のころ、信濃にあった木曽冠者源義仲が軍勢を集めて京都への行動を開始し、明けて五年の閏(うるう)二月四日平清盛が死んで家督を継いだ宗盛が、凡庸とあってまさに一葉落ちて天下の秋を知るともいうべき平家の運命であった。
そのころ常陸信太(志田)郷を領していた志田義弘が何を思ったか、大軍を集めて頼朝追討を豪語していることが鎌倉に聞え、頼朝は小山朝政の弟長沼宗政らにその討伐を命じたが、義弘は小山城の奪取をねらっていよいよ動き出した。
この義弘は源為義の子で、頼朝の叔父にあたる小勇短慮の人物であった。
小山朝政は弟結城朝光、一族の下河辺行平とともに小山の南方野木村の野木神社境内に彼を迎え、援軍として走せつけた長沼宗政とともに奇計をめぐらしてこの戦いに勝ち、義弘は退いて武蔵の小手差河原での決戦のすえ、また敗れて行方をくらました。後になってわかったことであるが、敗戦の後は夕闇に乗じて上野に逃れ、やがて信濃にたどりついて木曽義仲の軍に投じた。
これがやがて義弘の滅亡となり、義仲の子義高の死を招いたばかりか、頼朝をして義仲討伐の口実となったもので、常に歴史は人間の測り知れない運命の糸を蜘蛛の巣のようにはりめぐらすものなのである。
義仲が挙兵以来、いわゆる旭将軍と呼ばれるほどの勢威を示し、人気を高めたことは頼朝にとって、まさに目の上の瘤であり、その生涯を貫いた冷酷無残な性格は、このころから現実の劫火となって燃え初めたものといえる。
頼朝は挙兵以来一族に向って、その独断専行を許さず、すべて鎌倉の命により行動せよといっていた立場から、頼朝と意思の疎通を欠いている源行家を義仲の陣に参加させ、今また謀反人義広を迎えて、しかも何の報告さえも怠っていることは断じて許せない。など、誠意を示さない限り追討の軍を送るぞと、激怒している。
かくして翌二年三月義仲は嫡子義高(十一才)を、人質として頼朝のもとへ送ることによって異心のないことを申し入れた。
寿永三年(一一八五)八月、年号は元暦と改められたが、人質となった義高少年は頼朝夫妻の一女大姫の遊び相手となって(やがて夫婦の間柄となったという説もある)いたが、義高の侍臣海野幸氏がある夜半のこと、頼朝が義高の殺害を命じていることを知り、その夜のうちに義高を伴なって鎌倉邸を脱出した。しかし翌朝となってこのことが知られ、頼朝は堀親家に命じて手兵二百によって、その行方をさぐらせ遂に武蔵の入間川の岸辺で義高主従を斬り、義高の首を頼朝のもとに送った。大姫は狂乱しその首を抱いて離さず、泣き叫びやまなかったという、悲劇の演じたことは誰も知るところである。
こうして大姫は悲恋の床に臥したまま、生ける屍として、ひたすら義高の冥福を祈り、再び父と呼ばず母ともいわず、大将軍の子として生れた不運をなげきながら悶々十四年、建久八年の秋終に空しくなった。
かつては頼朝夫妻から掌中の玉として限りない愛をうけた彼女は、ひたすらに亡き相思の人、義高のみ霊を追って何処の空にか消え去った。
大姫の死後二年を過ぎて父頼朝も死んだ。しかもそれが変死であると伝えられていることには、何事か感慨禁じがたいものがある。