まず信濃から少年義高の侍者として鎌倉に下向し、よくその忠動ぶりを賞賛されていた海野幸氏についてであるが、義高が殺された後、鎌倉にひきもどされた彼は、めずらしくも頼朝の愛情と信任によって罪を許され、本領を賜わり、弓名人八人のひとりとして重用され、その後、天文年中に村上義清と戦ったとき勇ましく戦死を遂げているという説がある。
さらに、これとは別に義高の生存説さえあって、しかもそれがわが下野に潜入したという興味ある話となって伝えられていることである。
まずその一つは芳賀郡益子地内に義高墓と古くから伝えられているものがある。しかしこれは義経の兄阿野全成の墓であり、このことについては、後に述べることにする。
次は安蘇郡に義高の居城と伝えられる旧新合村山形の手カ城、同村中束家に秘蔵されている義高関係の古文書、また、同所の御所入という里に伝えられる義高の墓がある。
伝えられるところによれば、入間河原にあって、追手の兵もあまりに哀れなので、ひそかに逃した。義高は佐野十一代城主基綱を訪れて救助をもとめたので、基綱は新合村にかくまい、その少年時代を過させた。
こうして義高は後年に名を佐野義基と改め正治元年(一一九九)牛カ城を築いてその城主となった。殺されたはずの元暦元年からは十五年を過ぎている。またその墓は同地の如法寺なる廃寺の跡にあって、彼が晩年になって入道し自ら開基となって本寺を創建したともいう。
さらに那須郡両郷村(現黒羽町)に廃寺円応寺の跡があり、そこに義高の妻の墓と伝えられるものがあるそうである。
「那須記」によれば、海野幸氏は義高のあとを追わず頼朝に禁足されていて、義高脱出後のことを次のように述べている。
義高は下野那須野に逃れたが、追手の近づいたのを知って自害を決し、守り本尊の阿弥陀仏を取り出して、最後の祈りをしているところを追手の将掘親家に発見され、すでに捕えられるところを逃れ、那須太郎資隆に案内されて武蔵に引き返し、入間川のほとりで藤内光隆に追いつめられ数人を斬って後に光隆のために殺され、その首を取られた。
義高の首は鎌倉に運ばれたが、大姫や政子の嘆きや憤りに施す手立てもなく、やむを得ず頼朝は命じて光隆を斬らせ、彼女たちの気分を柔らげようとしたが、さらに効果がなかったという。
義高の首は鎌倉に運ばれたが、大姫や政子の嘆きや憤りに施す手立てもなく、やむを得ず頼朝は命じて光隆を斬らせ、彼女たちの気分を柔らげようとしたが、さらに効果がなかったという。
なお、義高の遺品となった阿弥陀仏は資隆によって堂宇が建てられ、そのなかに安置された。その場所は、大田原市の北方木曽峰という丘であると伝えられている。
諸説まさに紛々、義高をめぐる生死の真相は、ますます奇怪であるがこれが歴史の謎であり、伝承の神秘というものである。