第一節 承久の変

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 八十四代順徳天皇の承久元年(一二一九)正月、将軍実朝が暗殺されると、後鳥羽上皇はひそかに政権の朝廷復帰を期待されたが、頼朝の未亡人政子と執権北条兼時とは、右大臣九条道家の子頼経を迎えて将軍職にしょうと策を講じ、このため京都方によって承認された。
 これは頼経が源氏と姻戚の関係になるためであるが、このとき、年いまだ二才の赤児に過ぎず、政治の実権は政子の手に握られて将軍は名のみの空位であった。その後にあっても将軍の擁立は北条氏の意のままとなり、後醍醐天皇の元弘三年(一三三三)、やがてその北条氏が滅亡するまでのおよそ百十五年間頼経、頼嗣、宗尊親王、惟康親王、久明親王、守邦親王の六人がロボット将軍として迎えられた。
 こうして後鳥羽上皇の政権奪還の夢は破れて、年来の北条氏に対する憤りを押えることができなかった。これが承久の変の導火線である。



 承久三年(一二二一)四月、順徳天皇は位を仲恭天皇に譲ることによって三上皇が出現する。後鳥羽を本院、土御門を中院、順徳を新院と称したが、本院は近畿十四カ国の兵を集め、院宣を発して義時討伐を明らかにし、使者を鎌倉に送って宣戦の布告に出た。
 北条方は東海、東山、北陸の三道から大軍を送り、東海道には大将義時にかわって康時が足利義氏、三浦義村ら十万騎を率い、東山道には武田信光、小山(結城)朝光らの五万騎北陸道には結城朝広らの四万騎、まさに、怒濤となって都に向った。
 これを迎えた諸道の官軍は、みな戦敗を重ねて、たちまち北条勢が京都に迫ると、本院は泰時に院宣を送って挙兵したことをわび、その戦勝が鎌倉に伝えられると、義時は命じて首謀の公卿たち多数を斬罪にし、また新院を佐渡に、中院は土佐にうつした。
 こうして承久の変は、後鳥羽上皇方の大敗に終わり、その結果はかえって北条氏の勢威をまし、朝廷はいよいよ幕府に屈服するあさましさを招いた。
 執権兼時は、承久の乱後三年の元仁元年(一一二四)六月近臣のために殺され、子泰時、弟時房らが中心となり、泰時が執権となった。翌嘉禄元年(一二二五)女丈夫といわれた政子が六十九才で没したが、泰時の善政によって幕府の基盤はいよいよ固められた。
 泰時の後は執権時頼の善政が行なわれた。功臣三浦泰村の滅亡などを経て後深草天皇の康元元年(一二五六)時頼が病んで職を退き、文永五年(一二六八)時宗が執権となって、ここに文永弘安の両役を迎えることになる。