第二節 各地に盗賊横行する

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 鎌倉幕府の政変と対京都公卿との政権の争奪等に於て、下野の武者達は宇都宮、小山、那須を始めとしてその配下の武将は皆北条氏のもとにあって各地に転戦、従って下剋上の風潮と自己の安全のためには他人ばかりでなく、親子兄弟さへも相争うこととなり、血なまぐさい様相が各地にみられ、これにつれて盗賊の横行も甚だしく、幕府もこれが取締にはひとかたならず手を焼いていた模様で、「那須記」もこのことについて次のように述べている。
 人皇八十八代後深草院の御時に当って、奥州道筋夜盗強盗蜂起して、往かんの旅人の煩となる。これによって、鎌倉将軍宗尊親王より御教書を下し給ふ。文に曰く、「奥州大道夜打強盗のこと蜂起したる由、其きこえあり。これひとえに、地頭沙汰人無沙汰のいたすところなり。ただ此の如きの中からあらば、自他領をきらわず、見てこれをかくすべからざる由、住人等の起請文を召され、其の沙汰致すべく、尚下知に相背くの旨緩怠せるものは、殊に御沙汰あるべきによって、執達くだんの如し。」
 建長八年丙辰(一二五六)六月二日(建長八年康元と改元)執事最明寺時頼引つけ、頭人一番に武蔵守朝直、二番、尾張守時章、三番、越後守時実、四番、和泉守前司行方、五番、秋田城之助泰盛、各々参内参曾して、その沙汰あり、奥州路次の地頭等に警固致すべきよし申し、其の人々には、小山出羽前司、宇都宮下野前司、阿波前司、塩谷周防五郎兵衛尉朝基、氏家三左エ門尉経朝、壱岐六郎左エ門尉、同七郎左エ門尉、出羽四郎左エ門尉、陸奥留守兵エ尉、宮城左エ門尉、和賀三郎兵エ尉、那須肥前守資家、福原小太郎資秀、芦野地頭渋江太郎兵エ尉、等々  以上二十四人、同五日に件の人々を召して、自今以後この仰せを背くやからには、所領を没収すべきのよし委細に仰せつけられ、各々、「かしこまり候。」とて、御前を立って宿所に帰り、各領内辻々に番を置きければ、暫らく路辺の白波静まりけり。
 さるはどに正嘉元年(一二五七)二月頃、下野塩谷郡高原のふもとに、金沢源次入道荒山と言ふ白波あり。家の子郎党八十余人あり。又同国五月女孤次郎入道鉄心とて、近国にすぐれたる強盗あり。相随う悪盗五十余人天下の御政道にもしたがわず、地頭の下知をも用いず、民家に押し込み、鉄棒をもって垣壁を打ち破り、出会ひ者をば打殺し、家財を奪ひとり、ある時は旅人の衣装をはぎとり、異議に及ぶものは、おのを以て一打に勝負と、夜刃羅殺の振舞をなす。 云々、

 単に東北路ばかりでなく、全国各地に起ったことと考えられる。これについて那須家系図資村の条にも前記の人々に教書があったと書かれている。
   御教書
奥大道夜討強盗事近年為蜂起之由有其聞是偏地頭沙汰人等無沙汰之所致也。早所領内宿々居置直人可警固只如有然之輩者不嫌自他領不可見隠之由被召仕人等起請文可被致其沙汰若尚背御下知之旨令緩怠者殊可有御沙汰之状依執達如件

              建長八年六月二日
                              那須肥前前司 殿
(太郎左衛門尉肥前守那須資村)