第三節 宇都宮頼綱(歌人蓮生法師)

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 宇都宮三代城主朝綱は公田掠奪のことを訴えられて土佐に、孫の頼綱は豊後に、同じく朝業は周防に流罪となったが、間もなくぬれ衣であることがわかって、それぞれ帰国した。このころ朝綱の子四代城主業綱は父に先立って死んでいるので罪をまぬかれ、頼綱が五代城主となった。
 この頼綱は妻の座がたびたび変っていて、初め稲毛重成の女を妻として長男時綱を生み、次は、梶原景時の女を迎えて二男頼業を生み、次は尼将軍北条政子の六妹と婚して三男泰綱と四男宗朝と二女をもうけている。

宇都宮氏略系

 ところが長男時綱は三浦の乱に鎌倉にあって自刃し、その子すなわち頼綱の孫時親は宇都宮城下にあって追手の兵に殺され、二男頼業は景時没落によって、ひそかに横田城主となって世に出ることもなかった。また、三男泰綱が家督を継いで六代城主となっている。
 すなわち頼綱の半生は若くして祖父の罪に問われ、父は弱年にして病没し、さらに長男が自刃し、初孫も非業の死を遂げている。また、たびたび妻がかわったことなどと合わせ、決して家庭的に恵まれているとはいい得なかったのである。
 しかも、この悲運の頼綱に対し元久二年(一二〇五)八月七日「宇都宮頼綱謀叛、すでに一族郎党を率いて鎌倉に向って出発した。」という風評が乱れ飛んで、それが執権北条時政、政子の耳に達し、同族である小山朝政に調査を命ずるというおだやかならぬさわぎとなった。三代朝綱の妹は初代小山城主小山政光の妻となって寒川尼といい、小山朝政、長沼宗政、結城朝光の母であることはすでに述べたとおりである。
 かくて朝政の探査により謀叛のことは全くの作り事であることが明らかとなって鎌倉の面々を安心させたが、頼綱本人は「廉恥こそ武門の面目」と、身の潔白を証するためにも、かつは年来の武門生活にあき足らない立場からも、決然として出家することになった。
 いよいよ仏門に帰依した頼綱入道蓮生は一族郎党を連れて宇都宮を去り、鎌倉に別れを告げて遠く西国に赴き、摂津の勝尾山に至って法然上人の門に入り、名を実信房蓮生と改めて念仏往生の道を励む身となった。時は承元二年(一二〇八)十一月、蓮生は未だ三十七才であった。
 この蓮生法師は念仏の行者であるばかりではなく、むしろ歌人として知られているが、そもそも出家して京都の地を選んだことは和歌の道に精進するための宿願を果すことにあったためとも思われ、ひっきょう仏の道も歌の道も複雑な運命と生活の所産と思われるが、そのために他日を期した綿密な準備が行われていたようにさえ感ぜられるのである。
 それは彼の一女が歌聖とうたわれた藤原定家の子為家に嫁している事実からも察せられこれも歌道を通じて結ばれたものであろうが蓮生が入道後五十年におよぶ歌の道は兄であり師である定家によっていよいよ洗練され、歌人蓮生として当時の各歌集に彼の作が非常に多くやがて宇都宮氏一門の間に多くの歌人城主を生み出す源泉となり、下野武士の誇る文武両道への影響力は下野文化史上特筆されてしかるべきであろう。
 かの「小倉百人一首」は蓮生が定家の筆を乞うて障子にはった色紙が始めであり、定家の「明月記」に「文暦二年五月乙未朝空晴嵯峨中院障子色紙形、予ニ書クベキ由、彼入道懇切ナリ依テ筆ヲ染メテ之ヲ送ル、古来ノ歌天智天皇ヨリ以来家隆、雅経卿ニ至ル、夜ニ入ッテ金吾ニ示シ送ル。」とある(入道は蓮生、金吾は定家の子為家を指す。なお小倉百人一首と呼ばれることは、定家が当時、洛西常寂寺山中の小倉山荘に住んでいたためであるといわれている。
 蓮生は正元六年(一二五九)十一月十二日洛外粟生の光明寺にあって天寿をはたし八十八才で没しているが、この長い間に鎌倉や下野を訪れていることは、その数多い作歌からもうかがわれる。
   続千載集                    蓮生法師
 道はなく忘れはてたる故郷に月は尋ねてなおぞすみける。
 法の道あとふむかひはなけれどもわれも八十路の春に逢ひぬる
 宇都宮氏一族の歌人は別紙の略系によって知られるであろうが、特に蓮生の弟で塩谷氏第一代となった朝業は、鎌倉出仕中にあって、将軍実朝と親しい歌道の友となり信生法師の名において多くの名歌を残している。